第2話

文字数 2,032文字

 碧海は黙ったままウィスキーをうまくもなさそうに再び口へ運んだ。
「仮にも芸術という海で泳ごうという人間がひざまずく相手は一つしかいない。そう、美だよ。プロティノスの哲学を持ち出すまでもなく、美は全ての根源、ありとあらゆるものを屈服させる力なんだ。どんな屈強な男も、金持ちも、貧乏画家もこれには額づくしかない。一切の存在を表象する善なる光があるとして……仮に存在するとしての話だが、それを模倣して生まれたものが美だろう? 美には無駄というものが一切なく、軽やかで、全てを超越している。彼岸で微笑むものが美だ。だが、現実世界にはその美の残り香すらほとんど感じられない。仕方なく、我々芸術家は陽射しに透けた一枚の葉、水面に広がる波紋なんかにそれを見出す。そして、人間の間に美が存在した例はひどく少ない。あるにしてもたった一瞬だ。葉巻蟻だの羽虫だのにやられて虫瘤だらけになった枯れ葉ばかりだ」
「しかし、君のいう陽射しも波紋もやはり一瞬の美じゃないか」
 私がそう言うと、碧海は初めてそこに人間がいることに気づいたような顔をした。
「そもそも美は一瞬に過ぎないものだと?」
「巨樹だって離れて見れば美しく感じるだろう。その中に虫瘤だらけの葉が混じっているとしてもね。だが、君は人間だ。どうしても人間を離れて見ることはできない。その身になってみれば、植物だって蟻との無言闘争をくり広げてるかもしれないよ。君が本当の芸術家を目指すなら、人間でいながら人間でいることをやめて、離れたところから彼らを眺めるほかないんだ」
「妄言だな」と塚崎が言った。「そんなことを言っていられるのは食うに困らぬ身分だからだ。人間であることをやめる? そんなことが可能なものか。外地で同胞が身を盾にしている時分に恥ずかしくないのか」
「なら、こんな穴蔵で酒を飲んでる君は偉いのか?」
「女は女だ。断髪にしようが中折れをかぶろうが」
 私はもう少しで塚崎に紅茶をぶっかけてやるところだったが、碧海が腕をのばしてそれを制した。芝浦はワイングラスを手の中で回し、碧海の言葉を反芻しているのか、面白そうにその波紋を眺めながら言った。
「しかし、君は『消えた女』についてまだ何も語っていないよ」
「そんな話をしてどうする?」と碧海が答えた。
「いや……君は自分で思うより、人の関心を惹くようにできてる男なんだ。何、容姿のことを言うんじゃない。どういうものか、人は自分を見てほしがっている者には関心が持てないのに、何かを大事そうに隠し持っているのに気づくとのぞいてみたくなるんだな」
「俺はそんな話をした覚えはない」
「だが、俺の耳には届いたよ。君があの珍妙なお屋敷……失礼。アトリエに引きこもって、ひねもす一人の女のことばかり考え続けているって。デッサンの反故だけでも紙屑屋が一儲けできるって話じゃないか? よほど美しい女なんだろう?」
「初耳だ」と私も水を向けた。「一体、どういうわけ?」
 すると、碧海は自分の左手で顎をつかみ、揉み潰すような仕草をした。
「画廊の狸親父か」
「彼をそう悪く言っちゃいけない」と芝浦は反駁した。「彼なりに君の生活を何とかしてやろうと心を砕いてるんだから」
「あちらの画家の真似事をさせて、デパートの上階で二束三文で売りたたく商法が?」
「それでも、生きてかなきゃならない」
 私はふと芝浦の二重顎を見つめた。
 芝浦も私を見つめ返し、まるで菩薩のような、真顔とも笑顔ともつかない一種異様な表情になった。
「それじゃ、一つ俺様が当ててやろう」塚崎が歌うように体をのそりのそりと左右に揺らしながら言った。「そいつはおそらくカフェーで拾った田舎娘で、少し磨いたらこれが恐ろしくシャンになった。しかし、周囲が騒ぎだしたらそれを潮に三十過ぎた貧乏画家を切り捨てて、今や学士様と口にするのも憚られる間柄というところだろう。しかし、画家の方は自分が育てただけに名残惜しく、彼女の面影を思い出しちゃあ独り涙にかきくれてちびた鉛筆を走らせてるってわけだ」
「馬鹿馬鹿しい」と碧海は吐き捨てた。
「どこかで聞いたような話だな」と芝浦も笑った。「大方、谷崎の小説かなんかだろう」
「あの主人公は画家じゃない」と私も加わった。「確か、技師じゃなかったっけ?」
「お前も小説家になれるよ」
 碧海はそう言うと、自分の酒代を置いてインヴァネスをはおった。私も中折れ帽を手にして彼の後を追った。
「なぜついてくる?」
「話をしまいまで聞いてないから」階段を上りながら私は言った。「消えた女の話だよ」
「聞いてどうする?」
「個人的興味さ……大いに関心があるんだ。なかなか人に語れような物語にね」
「奇妙な趣味だな」
「何、柳田國男だって消えゆく民話を採取して回っただろう? あれと同じことだよ。人の心の奥に消えずに残っているという点では」
 ふと、碧海は階段のてっぺんで立ち止まり、私を振り返った。
 その瞳は街灯の明かりを受けて、まるで丁子色のガラスのように光っていた。
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