第9話

文字数 2,077文字

昔の富士山縦覧所や菊人形と同じこと。休業中の坑道を利用した観光遊戯。私はそう自分に言い聞かせたが、はやる気持ちを抑えることはできなかった。
 汽笛とともにマッチ箱をつなげたような幌付きの車輌(呼称がこれで合っているのかどうか分からない)が左右にガタガタと揺れながら動きだす。隣に乗りこんだやえが悲鳴をあげ、私の膝をぐっとつかんだ。
「茉莉花様、危のうございます。轅におつかまりくださいまし」
 やえが轅と呼ぶのは銀色に冷たく光るレバーのことで、そのレバーなら元よりしっかり握りしめている。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と唱える彼女の声が車輪の立てる轟音にかき消され、太い注連縄の張られた坑口が一気に近づいてくる。とたんに視界が闇に溶けた。
 坑道は落盤を防ぐために鳥居形に組まれた細い丸太によって支えられ、いたるところに裸電球がぶら下がっている。洞壁は湧き出す水で赤茶色にぬらぬらと光り、その水は足下のレールにも雫をまとわせている。
 トロッコの旅は呆気ないほどすぐに終わり、私は兄に手を取られて板の敷かれた坑道へ降り立った。その板も湧き水で湿っている。ふと顔を上げると、洞壁の一部が孔雀色にきらきらと輝いている。酸化銅の色らしい。
「お足下にお気をつけなさいまし。ええ、お袖を濡らさないように。錦紗でございますからね」
 私はやえの言葉を尻目に父の背中を追って歩いた。もちろん、山神祭りの間は発破はない。しかし、周囲には石粉の匂いが立ちこめ、それが清冽な水の香りと溶け合っている。
 坑夫たちはレールの分岐点にある小屋で鑿岩機やダイナマイトを受け取り、立坑ケージと呼ばれる昇降機で自分の担当する場所へ向かうという。蟻の巣のように入り組んだ坑道にはそれぞれ第○番坑という名称がつけられ、その数字が大きくなればなるほど深くなるらしい。深ければそれだけ給料も上がるが、危険も増えるのは言うまでもない。地熱で筋肉が固まってしまい、突然梯子から転落して命を落とす者もいる。俗にいう「地獄の釜」だ。初めは殊勝な気持ちで働いていた者も、恐怖心を紛らわすために酒や博打に溺れ、金を貯めるどころか飯場頭に借金を重ねる始末。本当に真面目な者は稼ぐだけ稼いだらすぐに山を下りる、というのは祖父の口癖だった。
 坑道を少し戻ったところに人形の家のような小さな社があり、豆電球の光を受けた榊が漆を塗ったように輝いている。坑夫たちが安全を祈願するための社だという。神主が大幣を左右に振る間、地底巡りの旅に参加した全員が頭を下げてまぶたを閉じていた。
 黒い水に腰まで浸かりながら暗闇の中を進み、棚状になった岩盤と向かい合い、腰を屈めて槌をふるう。楔はすぐに鈍るから、新しいものと取り替えてはまた槌をふるい、蟻の巣を少しずつ広げてゆく。石粉にまみれた汗が首筋を伝い、腕には異常に硬い筋肉が盛り上がっている。資金繰りに困っていた時分は魚油を使っていたそうだから、その顔は煤で黒く染まり、竪穴から遠い場所では嫌な匂いも立ちこめていただろう。
 小さな吐息が漏れる。しかし、それは私ではなく、隣にいる兄の喉から聞こえてきたものだった。
 白い光が瞳を傷つけるようだ。きっと、昼夜問わず鉱山で働く坑夫たちもそう感じ続けてきただろう。トロッコが元の場所に停車すると、それを待っていたようにまた笛の音が聞こえた。今度は猿田彦の道行きではなさそうだ。シャン、シャンというどこか懐かしい鉦の音も響いている。
 碧海とは神社の入口で待ち合わせている。しかし、そこへたどり着くまでの道のりが長そうだ。紋付袴姿の紳士、作業着に褞袍をはおった青年たち、東京からの見物客。父が村長につかまったのをいいことに、私は母と狭霧の目を盗んでその輪からそっと抜け出した。毛皮つきのコートをまとった大きな背中が次第に遠のいてゆく……私は知りもしない相手と挨拶を交わし、やえの手を引きながら人波をかき分けていった。
 神社のある通りには夜の銀座を思わせる屋台が並び、茶店の前ではつながれた猿が人真似をして客を呼びこんでいる。曰くありげな幕が下りているのは見世物小屋らしい。謳い文句は「村一番の相撲取りに負けた河童の木乃伊」とのこと。私は思わず足を止めたが、今度は反対にやえに引っ張られてしまった。
 碧海は約束通り神社の由緒が記された立札の前で待っていた。見慣れた一張羅の結城紬に錆色の帯を締め、肘の部分に継ぎのあるインヴァネスをまとっている。
「そんな格好だと令嬢らしく見えるな」
 私は梅の模様を大胆にあしらった錦紗に幾何学模様の帯を締め、菫色の羽織をはおっていた。私は袖を軽くつまみ、マネキンガールのようにポーズをしてみせた。
「モデルになって差し上げましょうか?」
「悪いが、俺にも選ぶ権利がある」
 碧海はそう言うと、くるりと踵を返して神社の参道を進んでいった。もう少しすれば淡い桃色の花びらが境内に降るだろうが、今はまだその蕾さえ膨らんでいない。その代わりに、いたるところに駅前と同じ造花が飾られている。社殿の左手には檜の香りを漂わせる神楽殿があった。
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