第11話

文字数 2,441文字

 そう、私は落ち着いて考えなくてはならない。
 まず何から考えよう? 一つめ、どんなふうに監視の目をかいくぐって碧海と落ち合うか。二つめ、あの隠し部屋にあった肖像画は誰のものか? 三つめ、この二つをきちんと考えるためにやえのいびきをどうやって止めるか……よし、順番を入れ替えてこれを一つめに持ってこよう。
 神楽の幕間にそっと抜け出すという作戦は、想像以上にしつこくまとわりつく狭霧のおかげで台無しになってしまった。密かに屋敷へ戻るどころか、碧海と作戦会議をする暇さえない。祖父からもらった金時計を無言で手渡すのが精一杯だった。しかし、この行為で待ち合わせが必要なことは彼にも伝わっただろう。碧海は夜通し行われる神楽を見学し、絵画の新しい構図を練るつもりらしい。さすがにもう部屋に戻っているとは思うが……。
 私はゴブラン織りのカーテンを引き、墨色に塗りこめられた窓を見つめた。幾何学模様の金線の中にガラスがはめこまれている。幸運なことに、はめ殺しではなく上げ下げ窓だ。完全に開けば上半身を滑りこませるくらいの幅と高さはある。それに分厚いカーテンをまとめる紐は一寸ほどの太さがあり、全体重をかけたところで千切れるおそれはなさそうだ。
 オーク材のライティングビューローの扉を引き落とし、鈴蘭の形をした小さなランプのスイッチをひねる。獄中で手記を認める政治犯の気分でペンを走らせていると、突然右側のベッドで何かがむくりと動いた。
「茉莉花様。何をなさっておいでです」
 蓄膿症のやえは眠りが浅く、それでいて放っておくと一日の半分も寝ている。これはやえの仕事熱心さと相反する証言のように聞こえるかもしれないが、彼女がひどく有能な働き手であることは事実だ。閑話休題。私はわざと眠たげな声を装ってやえに答えた。
「桃香にお手紙を書いているの。着いたらすぐ寄越してちょうだいと言われていたのにすっかり忘れていて。彼女、東京市の外は魑魅魍魎の巣窟だと思っているから。天狗にさらわれずに無事着きました、って報告しておかないと」
「安倍のお嬢様でございますか」
「ええ、そう」私は文字がきちんと乾くのも待たずに手紙を折り畳んだ。「明日、朝一番に持たせるわ」
「それなら私が参りましょう。ここの者たちはよく存じ上げませんし」
「いいの。私が散歩のついでに寄ってもいいくらい」
 私は立ち上がってラインティングビューローの扉を閉じた。
「どこへいらっしゃいます?」
「お手洗い。すぐに戻るからやえは眠っていて」
「それはできません」やえは脅すように人差し指を立てた。「お義母様からきつく仰せつかっておりますから。茉莉花様がお休みになるまで、やえは一睡もせずにこうして待っております。半刻しても戻られないようでしたら、ええ、このやえめが責任を持って屋敷中探し回ります」
「すぐに戻るって言ってるでしょう」
 私はやえに背中を向けてドアを開けた。全く、母はどこまで私を疑っているのだろう? 碧海との仲をいぶかっているのか、それとも、母自身に後ろ暗いところがあるのか。
 私は紬だけの肌寒い格好で抜き足、差し足階段を下りていった。どこか遠くで鳩が奇妙な鳴き方をしている。ホー、ホー、ホッホー。外灯の明かりを朝と勘違いしているのだろうか。曽祖父は山奥に人工の時間を持ちこんでしまったらしい。
 碧海の部屋は一階の外れにある。画家には不向きな西陽の当たる部屋だが、作品を仕上げるわけではないからいいのだろう。私はドアにそっと耳を当てた。何の音も聞こえない。ドアの隙間から光も漏れていない。まだ帰っていないのか、単に眠っているだけか。私は屈んでドアの下の隙間に手紙を差しこんだ。文面はいたって簡単で、「丑の刻にハス池で待つ」とだけ。この洋館の周りには池が大小二つあるが、蓮のある池は一つしかない。それにあの池と洋館の間には杉木立があるから、万一夜更けに誰かが窓から庭をうかがっても何も見えないだろう。屋敷内には見張りがうろついているかもしれないが、まさか家人がわざわざ外から侵入するとは思うまい。狙うは父の書斎、秘密の通路の先にある隠し部屋。まさに完璧な作戦だ。私はひとりでに笑みが浮かぶのを感じた……その瞬間、絨毯の数歩先に黒い影が揺らめいた。
 私はとっさに人差し指の指輪をはめ直すふりをした。しかし、ぎこちない仕草だったことは否めない。半分口髭に隠された彼の唇には皮相な笑みが浮かんだ。
「指輪は見つかりましたか?」狭霧はわざとらしい抑揚をつけて言った。「こんな時間にどうなさいました」
「女性にそんなことを尋ねるの?」私は狭霧の目をまっすぐ見上げて言った。
「お手洗いなら二階にもあるでしょう。白黒の市松模様のタイルが貼られた……そんなところまでハイカラなんですから」
「私、よく覚えていなくて。もう三年も前に来たきりだもの」
「ほう」狭霧は唇の左端を上げて笑った。「それはそれは。茉莉花様の御枉駕の栄に浴した村民たちは幸せですなあ」
 狭霧は腰を屈めると、わざとらしく私の手を取って乾いた唇を押し当てた。
「どうか覚えておいてください。この僕も貴方と偶然出会ったひと時に胸躍らせている一人だと」
「そう」と私も微笑み返した。「それなら、貴方に案内してもらおうかしら。だって、貴方の方がこの館には詳しそうだし」
「それはまた」と言って、狭霧は笑みを濃くした。「ご冗談を」
「冗談じゃないわ。貴方、そんなに暇なら館内を見回ってくださらない? ここの蔵にある宝を盗み出そうと考えている不届き者がいるようだから」
「ほう」
 当たりだ。普段、狭霧は短い会話の間に全く同じ相槌を打つようなヘマはしない。私はくるりと踵を返し、階段の手すりをつかんで彼に声をかけた。
「ようく見回ってね。この館内から何一つ、失われるものがないように」
「ええ、お任せください」
 しかし、私は気づくべきだったのだ。
 その時、狭霧が囚われていたのは私の言葉などではなく、彼自身の思惑だったということに……。
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