第38話

文字数 2,218文字

 サン・ルームのガラス戸に映る庭は整然として、鉄柵にからみついた木香薔薇がふさふさとした白い花を溶けない雪のように降りこぼしている。私は紅茶を一口飲んで息をついた。曇ったレンズで撮った写真のようにぼやけた景色。まん丸に刈り揃えられた御伽噺じみた植えこみも、膨らんだ蕾に血をにじませる薔薇も。全てが輪郭を蕩けさせ、淡い光の中で微睡んでいるようだ。それでいて、この光景はまぶたを閉じても、開いてもなくならない。
 それなら、昨晩私が月明かりの下で目にしたものは何だったのだろう?
 うたた寝でもしていたのか、夢中遊行をやらかしたのか、熱っぽい頭が見せた白昼夢だったのか……。
「素敵な朝食ね」
 母は唇に浮かぶ笑みを隠そうともせずそう言った。ヴィクトリアン・ブラウスの胸元には本人曰くアプロディーテの横顔が刻まれたカメオが光っている。私はスコーンに赤すぐりのジャムを塗りながら答えた。
「ええ。やえも上手く焼けたと言っていました」
「でも、いつまでもこうしていられないでしょう?」
 母は謎めいたことを言いながら私の正面に腰を下ろし、庭の方へ視線を移した。彼女は私の返事など期待していなかったらしい。ガラス戸の窓枠か、あるいは外の景色が映りこんだのか、彼女の瞳にはうっすらとした翡翠色がにじんでいる。
「貴方のお祖父様の忌明けまで待っていたけれど、もうすぐ彰さんの部屋も空くでしょう? 貴方もお兄様を見習って、本物の人生に踏みこんでみたらどうかしら」
 本物の人生。母の口からこぼれたその言葉は、私の唇に笑みを浮かばせるだけだった。本物の人生なら、昨日も待合で一騒動見学してきたばかりだ。そう言いたいのを何とかこらえながら、私はスコーンを一口齧った。
「本物の人生って何でしょう?」
「この間も話したけれど、貴方にとても良いお話があるの。桃香さんもお嫁に来られるのだし、貴方も少し考えを改めるんじゃないかって」
「改めるのはそちらでしょう」
 突然斬りつけられて驚いたのか、母は大きく目を見開き、それがわざとらしく見えるようわざわざ唇に笑みを咲かせた。
「まあ、頑固な方。本当にお父様そっくりね」
「実は、私もちょうどお母様とお話したいと思っていたところなんです」
 そこへ給仕が母の紅茶を運んできて、話は曖昧なままにいったん途切れた。しかし、母は泡のようなレースがついた襟元に指を差しこみ、軽く息をついてから私を見つめた。
「お話って、何かしら?」
「お母様はあまりお好きじゃないかもしれませんが、素晴らしい冒険活劇なんです」
「貴方、昨日浅草へ行ったんでしょう?」
「ええ」と私は微笑んだ。「でも、活動写真じゃありません。正真正銘、私がこの眼で見て、この耳で聞いた話なんです」
「素敵ね」と言って母は紅茶を飲んだ。「ぜひ聞かせてちょうだい」
「私の産みの母の故郷が黒杜にあることはご存知でしょう? 実は、その家にまた盗人が入るという噂があったんです。本家の蔵には骨董品がたくさんあります。でも、盗人はいったん蔵を荒らしたものの何も取らず、家中の人が出払う隙をうかがっている様子でした。それで私は考えました。盗人が家を自由に探索できる日を選ぶなら、祖父の四十九日の法要をのぞいてほかにはない、って。その日は耳の遠いばあやをのぞいて、家族全員が黒杜神社へ集うことになっていますから」
「冒険活劇らしくなってきたのね」
「でも、ここからが本番です。兄は黒杜と完全に縁を絶っているので頼りにできません。私は桃香に自分の身代わりを頼み、そっと東京市を離れました。そして、黒杜の本家の、母の部屋の前で待ち伏せしていたのです。賊は屋根を伝い、小さな鋸のようなもので窓ガラスを破り、鍵を開け、まんまと部屋に入ってきました。それから、壁をじっと見つめてベッドを動かすと、床にある小さな扉を開いたのです。賊はそこにある封筒をつかむと、その場で中身を確認しました……」
「それで?」
「話はこれで終わりです」と私は笑った。「私は碧海と一緒に盗人を取り押さえました。大方、その部屋に飾ってあった絵画を盗むつもりだったんでしょう。欧羅巴の著名な画家の作品らしいですから」
「その」母は紅茶をまた一口飲んで言った。「泥棒の正体は?」
 紅茶の水面がひどく波打っているのを確認すると、私は視線を庭へ移した。
「それがよく分からないんです。私が乗りこんだ時には覆面をしていましたし、警察でも自分の身柄を一切話さないらしくて。まあ、そのうち分かるとは思いますが」
 警察に渡す金銭の胸算用でもしているのか、母の瞳は一瞬遠くなり、その唇にまた元のような笑みが浮かんだ。
「とても面白いお話ね。でも、後で聞かされる身にもなってちょうだい。嫁入り前の娘をそんな危険な目に遭わせたとなったら」と言って母は息をついた。「それで……取られたのはその封筒一つきり?」
「ええ。でも、そんな手紙なんてなかったんです」
「えっ?」
「彼が盗んだのは私が入れておいた空の封筒ですから」
「さすが探偵さんね」と母はいびつに笑った。「でも、どうして泥棒が入ると分かったのかしら? それを聞いておかないと片手落ちのような気がするけれど」
「それは私にも分からないんです。蔵が無駄に荒らされたのと、その後で知り合いから怪しい人影を見たと聞いたときにふとそう思っただけで……よかったら、教えてくれませんか?」
「どういう意味?」
「なぜ、今ごろになってこんな騒動が起きたのか」
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