第3話

文字数 2,620文字

 資生堂のドアが開かれると、レコードの音楽とお喋りのざわめきが上階から滑り落ちるように響いてくる。私と碧海は給仕に導かれるまま二階の窓際の席に着いた。
 碧海は青白い顔でメニューを手にしている。私は彼が注文を決めてしまう前に素早く言った。
「今日は僕のおごりだよ。何でも好きなものを注文してくれたまえ」
 碧海は顔を上げて無言で私を見つめた……というより、にらみつけた。
「つまり」私はメニューを閉じて言った。「これは手間賃だよ。ほら、探偵だって情報料くらい支払うだろう? 君は僕に知りたい情報を与える。その代わり、空きっ腹を思う存分満たすことができるってわけだ」
「何を知りたい?」
「それを話すためにここへ来たんだろう?」
「ここに来たのは」と言って、碧海は周囲を見回した。「約束があるからだ。七時に待ち合わせをしている」
「待ち合わせ?」
「妻の肖像画を描いてほしいそうだ。それで浮気の埋め合わせをしようというんだろう」
「そういう仕事はもうこりごりなんじゃ?」
「芝浦も言ってたろう。生きてかなきゃならない」
「へえ」私は笑みを深めると、懐中時計を内ポケットから取り出した。「それなら、ぜひ僕の依頼を引き受けてくれ。七時までにはまだ一時間もあることだし」
「そうなのか」
「時計は?」
「質に入れた。画布や絵の具も高くつくんだ……ところで、依頼は何だ?」
「ほら、さっきの『消えた女』さ。何でもいいから話してくれないか」
「物好きだな」
「今初めて知ったのか?」
 注文を取りにきた給仕に、碧海はミートクロケットと珈琲、私はオムライスとアイスクリームを注文した。ということは、彼は私の依頼を引き受けてくれたのだ。
 艶々した半月のようなオムライスを銀のスプーンで崩しながら、私は碧海に話の続きを促した。それは話というより、ばらばらになったパズルのように覚束ないものではあったが。
「芝浦の話は大袈裟なんだ。女は逃げたりしてない。元々存在していなかっただけだ」
「存在してない? つまり、幻の女か」
「いや、かつては存在していたはずだ。立派な肖像画が残されているくらいだから。だが、彼女はもう存在していない。きっと殺されたんだろう」
 私はスプーンを止めて息をのんだ。
「殺された?」
「これはあながちお前に無関係な話というわけでもない」碧海は淡々と食事を続けながら言った。「わざと俺を誘導してるんじゃ?」
「まさか。安心してくれ。何を話してるのかこっちはさっぱりだ」
「それなら話すが……何から始めればいいのか……そう、去年の今ごろだ。本当の人間を描きたい、俺がそう話したら世話してくれただろう? お前の一族が経営してるあの銅山へ……去年の冬は、ひたすら鉱夫をスケッチしたな。胡散臭い目で見られながら、荒々しいまでの現実と向き合い、文字通り腕一本でそれと立ち向かっている人間の姿を……いや、俺は何も労働者を美化したいわけじゃない。それじゃ陳腐にすぎる。つまり、目に見える造形と、内面から湧き出るものを双方画布に移し取るには、それ相応の手順が必要というわけなんだ。まず線と量感として最大限に抽象化したものを表面と立体との差異として区分し、しかる後に双方を」
「悪いが、芸術談義はちょっと後にしてくれ。いつまでたっても女の話にたどりつけそうもないから」
「分かった」と言って、碧海は別段気にするふうもなく水を飲んだ。「結果として形にならなかったが、俺は大いに満足して宿へ帰った。お前も知っての通り、鉱夫の住居と、役員の住居、それに経営者の住居には大きな格差がある。俺には洋館の贅沢な一室が与えられ、柔らかすぎるベッドが用意された。ありとあらゆる構図が頭に浮かんでは消えて、俺はなかなか寝つけなかった。すると、ベッドの足下で何かふわりと白いものが動いたんだ。猫が紛れこんだかと思ったがそうじゃない。ふと、彼女……そう、美しい女が振り向いたんだ。俺は分厚いカーテンを引き忘れていたから、女の横顔は月明かりに照らされて仄白く見えた。こう聞くと、怪談かと思うかもしれない。だが、俺の受けた感じはそれとは全く違っていた。何とも美しい女だった。大きな瞳がぼうっとした光に透けて、やせた頬のあたりが寂しそうに見えた……次の朝、俺の頭からは考えに考えた構図が全て消え去っていた。あの女の顔が頭から離れないんだ」
 そこまで一気に語ると、碧海は再びフォークを手にしてミートクロケットを口へ放りこんだ。
「つまり、君は円山応挙の幽霊もどきに恋してしまったってわけ?」
「幽霊じゃない」と碧海は即座に否定した。「俺はお前の兄貴に廊下でばったり会って、昨晩あった恐ろしい出来事を話してみたんだ。怒鳴られるか、馬鹿にされるかと思ったが……話のできる男だな。眼鏡を拭き直したかと思うと、俺をある場所へ案内してくれた。抽象化された花模様の壁紙が貼られた豪奢な部屋でね。淑女にふさわしそうなところだった。その部屋の暖炉の上に、問題の肖像画が飾られていたんだ」
「幽霊はうちのご先祖様ってこと?」
「それなら、英吉利の古い怪談にもありそうだが」と碧海は笑った。「実際はそうじゃない。彼は彼女のことを知らないというんだ。以前からその絵はそこに飾られていたが、決して彼の祖母でも曾祖母でもないと。そのうえ、誰が描かせたのかも知らないそうだ」
「おかしいな」と私はつぶやいた。「そんな絵があるなんて聞いたこともない」
「話す必要がないと思ったのかもしれない。彼は俺の話を聞いて面白半分に見せただけだろう。ちなみに、俺の感じでは肖像画はそこまで古いものでもなさそうだった」
「しかし、幽霊になってさまようからには何か曰くがありそうだね」
「そこなんだ。俺もそれをずっと考えてる。彼女はなぜ俺の前に現れたのか……肖像画の中ではややうつむき加減に微笑んでるんだが、俺の見た彼女は……もちろん、同一人物としての話だが」
「それが反故の山が築かれた理由?」
「どうもそうらしい」
 そこまで話したところで、給仕が食べ終えた皿を片付けて銀の器に盛られたアイスクリームと珈琲を運んできた。
 冷たいアイスを口に運ぶと、私はほうっと息をついて物思いにひたった。
 観葉植物の緑が目にしみる。一体、碧海の前に現れた幽霊は何者だったのだろう? 
 碧海は珈琲を一口飲むと、窓の方を見てささやいた。
「お前は家に帰る時間だな」
 窓をのぞくと、道路脇に見覚えのあるクライスラーが停まっていた。
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