第15話

文字数 2,558文字

 どこをどう歩いたのかちっとも覚えていない。
 気がつくと、私は長い石段の上にある本家の数寄屋門をくぐり、降り注ぐようなシジュウカラの鳴き声を耳にしていた。櫺窓の下にすえられた手水鉢の水面にも梅の花びらが浮かんでいる。どうやら、春が来たことに気づいたのは私だけではないらしい。
 玄関をくぐると、左手の階段から従姉妹の菫が足音高く下りてきた。中紅色の紬の裾を閃かせ、真っ白な頬を上気させている。私は従姉妹の顔がそのまま自分の鏡像になっているような気がした。
「どこへ行っていたの?」
 菫は私のコートを検分するように見つめ、呼吸が落ち着いてから言った。
「答えなくてもいいわ。そんなに汚れて……熱が引いたばかりだというのに、どうしてじっとしていられないの?」
「これでも普段よりはじっとしているけれど」
「貴方といたら、そのうち私の方が倒れてしまうわ」菫は言葉とは裏腹に笑って私の手を取った。「それなら仕事をあげる。何かさせておいた方がよさそうだから」
 菫は漆塗りの杉の踏み板をギッ、ギッときしませながら上ってゆく。束髪にした丸い後頭部で桜の飾りが柔らかに光っている。その白蝶貝の飾りは、苔色の水面に浮かぶ花びらとどこか似ていた。
 菫の部屋に足を踏み入れ、まず思い浮かんだのが混沌という言葉だった。桜の模様が透かし彫りにされた紫檀の机に、紺色のスケッチブックや濃さの異なる鉛筆、絵の具や乾いた絵筆などが置かれている。壁には舶来品らしき金色の額縁に入った絵画が飾られているが、おそらく画家が白の質感を出すことにこだわり抜いた結果、城壁が何ともいえないクリーム色になってしまい、それが樅や川面の暗い深緑色と奇妙な対照をなしている。およそ娘の部屋には不向きな絵画だ。一方、ベッドには薔薇色の友禅の布団が敷かれ、そのかたわらに大きな火鉢がどんと居座っている。おまけに床の上には神楽の舞処を飾る白い和紙が散らばっていた。
「切り紙を手伝ってちょうだい。やり方は教えてあげるから」
 しかし、その時私の目はちょうど窓辺にある椅子の上の人形に釘づけになっていた。西洋の陶器人形を模したものらしい。白磁のように滑らかな頬に、琥珀色のガラスの瞳。何か言いかけたように薄く開いた淡紅色の唇。髪は本物の人毛らしく艶々として、翡翠色の着物の腰の辺りまでのびている。
 私の視線に気づいたのか、菫は赤ん坊くらいの大きさの人形を抱き上げ、髪を優しくなでてやった。
「可愛いでしょう? 神楽面彫師が余興でこんなものを作っているの。神楽面は修復をくり返して使うから商売が成り立たない、って」
「誰かに似せて作らせたの?」
「いいえ、なぜ?」と菫はまっすぐな目で私を見つめた。
「今日、椿の林で黒杜の巫女に会ったの。彼女もこんな色の着物を着ていたわ」
「そう」菫は目を伏せて人形の頬に触れた。「睡蓮ね。とても綺麗な人で驚いたでしょう? ちょうどこのお人形みたいに……」
「彼女は何者?」
「何者って?」菫は笑って人形を置いた。「それより、早く手伝ってちょうだい」
 床の上には白い切り紙だけでなく、練習に使ったらしい千代紙の切れ端や小刀、杉の板、榊の枝、細い竹なども散らばっている。「混沌」といえば、菫自身にもそれを感じることがあった。唇にいつも曖昧な笑みを漂わせ、はにかみやだと聞いていたのに十年越しの知り合いのような口の利き方をする。しかし、それは私が本当の他人ではないからかもしれない。
 私は菫と向き合う形で床に座り、白い和紙と小刀を手に取った。
「こういうのは神主が作るものと思っていたけれど」
「明治のころに神社が統制されて、それから随分うるさいこともあったそうだけど、うちは昔のままに太夫筋の者が神楽を受け持っているから」
 私は菫の手つきを真似して紙を半分に折り、小刀を鞘からすらりと抜いた。
 舞処の長押に注連縄を渡し、そこにこれらの切り紙を飾りつけるという。東西南北を表す模様、春夏秋冬を表す模様。小刀を置いて紙を開くと、そこには小さな神様が三体、たがいに手をつないだ状態で微笑んでいる。切り紙を菫に見せようとした私は、ふと椅子の上の人形と視線が合った。
 人形は猫のような瞳でこちらを面白そうに見つめている。あるいは、神に祈りを捧げる人間の行為を嘲笑っているのかもしれない。
「あの黒杜の巫女も太夫筋の者?」
 私がそうきくと、流水に散る桜、という難しい柄を切り出していた菫が顔を上げた。
「もちろん」菫は作業を続けながら、歌でも口ずさむように言った。「神楽太夫は全部で八人。縁起の良い数字よ。お祖父様、お父様、お母様、私。分家の叔父様、叔母様、従兄弟の紫苑、それに叔父様と前の奥さんの娘の睡蓮」
 睡蓮と口にする時、菫の唇はかすかに震えた。彼女にとって私が母方の従姉妹なら、その紫苑や睡蓮とは入婿の父方の従姉妹にあたる。しかし、彼女は同じ村に住む睡蓮についてあまり私に語ってくれようとはしなかった。
 あるいは、本家と分家との間には確執のようなものがあるのだろうか?
 私は自分の頭の中にある帳面に一つ確認事項が増えるのを感じた。やえなら睡蓮のことを何か知っているかもしれない。
 菫は私の顔をまたちらっと見てから言った。
「ねえ、明日は蔵から神楽の衣装や小道具を取り出して虫干しするの。それも手伝ってくれる?」
「もちろん」と私は答えた。「巫女舞の衣装もあるんでしょ?」
「多分」菫は例の曖昧な笑みを口辺に漂わせた。「貴方はあの巫女にとてもご執心ね」
「そうかもしれない」
「かもしれない、じゃないわ」と菫はささやいた。「彼女、とても蠱惑的でしょ? あの瞳で見すえられたら、誰でも青大将ににらまれたようになってしまう」
「あまり良いたとえじゃないのね」
「いいこと」小刀を置いた手を膝にのせて菫は言った。「彼女にあまり近づかないで」
「なぜ?」
「なぜって」菫は自分の手元に視線を落とした。「美しすぎるものは破滅をもたらす。完璧なのは絵画や、音楽や、人形や……そう、夢の世界だけでいいのよ」
「でも、それを作ったのも人間でしょ?」
 無言で私を見つめ返す菫の瞳はかすかに潤み、私を通して別の誰かに何か訴えかけているようだ。
 私は長いまつ毛に縁取られた巫女の瞳を思い浮かべた。
 そして、百合という謎の女を……。
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