第40話

文字数 2,160文字

 サン・ルームを出ると書生が私に小包を渡してくれた。送り主は「黒杜紫苑」となっている。私は喫茶店で向かい合った彼の潤んだ瞳と、のぼせたように赤い唇を思い出した。それから、自分の部屋に戻って早速それを開封した。
 紐で綴じられた紺色のスケッチブック。私には表紙をめくる前にその持ち主が誰か分かった。背後に冷たいガラス製の陶製人形の瞳を感じる……しかし、振り返っても淡い風がレースのカーテンをそよがせているだけだった。
 小包の中には手紙は入っていない。紫苑は形見分けのつもりでこのスケッチブックを送ってくれたのだろうか?
 スケッチブックの表紙を開くと、鉛筆の濃淡で見事に描写された本家の中庭が現れた。苔生した石塔にも、奇妙にねじれた松にも見覚えがある。赤松の肌は蛇の鱗のようにささくれ立ち、幹ごとうねりながら空へのびている。
 次のページは庭の池に遊びにきたメジロらしい。モデルに動きがある分デッサンというよりスケッチに近いが、それでもメジロの軽い身のこなしや、羽毛のふわふわした感じが特徴的に捉えられている。それから、次のページをめくって私は息をのんだ。初めて睡蓮と言葉を交わした池のほとり……椿の林の奥にある、あの底なし沼が描かれている。石塔の後ろで交差する紅白の梅の枝。たっぷりとした水面に浮かぶ椿。そして、手前の水面には二つの人影が淡くにじんでいる。一方は菫自身だろうか。もう片方の影はそれよりも背が高いようだ。
 私は指先で隈笹に覆われた沼の輪郭をなぞった。指の腹が黒く汚れ、アンモナイトの化石のようにてかてかと光りだす。紫苑の言う通り、本当に菫はこの沼の底で眠っているのだろうか? それとも、彼は神経衰弱にかかって妄想を抱いているだけで、菫は古いしきたりを嫌って黒杜を飛び出したのだろうか? 
 茫然とページをめくっていた私の視線は、ふいに砥粉色の紙の右下に落ちた。沼を描いたページの裏に年月日と「つばきのいけにて」という字が記されている。なぜか私はその文字から目が離せなくなった。まるで未知の私がもう一人の私に何か訴えているように。
 桜の文字は美しい崩し字だ。しかし、そこまで読みやすい文字ではない。何かを主張することが少ない生活自体が、文字にも影響を与えているのかもしれない。「いけにて」の「て」は漢字の「天」を崩したものだが、上部のうねりを省略しすぎたせいでほとんど「く」に見える。私は一つ前のページをめくった。その下部にもやはり「めじろのあそぶにわ」という文字が記されている。この「にわ」の「わ」は漢字の「和」を崩した文字だが、前の文字と続けられ、膨らみもあまり持たせないせいで「利」を崩した「り」に見える。おそらく、文章全体を絵として捉えるためにバランスの方を重視してしまうのだろう。綺麗な割に読みにくい字がほかにも散見される。
 私は息を止めた。
 それから、机の一番上の引き出しの鍵を開け、白い封筒を取り出した。
 私は震える指先で母の手紙を一番上からなぞっていった。
 「善なるものと教えられて」のところで私の指はひたりと止まった。やはり、この「て」も「く」と間違えられそうな崩し字で書かれている。それから、「とてもそうは思われません」の「わ」も「り」とひどく紛らわしい……そして、見れば見るほどスケッチブックに記された文字と、手紙の書体とは似通っているのだった。
 ひとまず紫苑の話を信じるとして、菫が私の姉なら母と字が似ていてもおかしくはない。しかし、文字の癖まで完璧に一致することがありえるだろうか?
 私は賭けをすることにした。後一つ、もし同じ癖が見つかれば、このスケッチブックと手紙の主は同一人物とみて差し支えないだろう。
 私は息をついて再びスケッチブックをめくった。
 窓際にたたずむ陶製人形が描かれている……そのかたわらで片膝を立て微笑む碧海。少し鬱陶しいような前髪、切れ長な瞳、それに唇の端を少し曲げる独特の笑い方。
 菫にとって碧海は父方の従兄弟らしいから、彼が本家をこっそり訪れても何の不思議もない。しかし、私はなぜ「不思議はない」と自分に言い聞かせなくてはならないのだろう?
 そのページの裏にはただ「にんぎゃう」と記されているだけで「あおみ」の名前はない。私はその文字をじっと見つめた。「き」は漢字の「支」を崩した文字だが、これもやはり上部の横棒がきちんと書かれていないせいで「尓」の崩し字の「に」と似ている……それから、私は軽い眩暈をこらえて母の手紙に視線を移した。

 私があの企みを知った時、私の唇に生じたわななきは恐怖のそれではなく、むしろ喜びのために生まれたものでした。

 私は「わななき」の文字を指でこするようになぞった……このスケッチと手紙は同じ人物の手によるものだ。
 いつのまにか、てのひらや小指にも鉛筆の黒い色が移っている。しかし、私は構わずその手で頬をぬぐった。自分が泣いているかもしれないと思ったが、頬は指先と同じくらい冷たいだけでさらりとしていた。
 どこかでヒヨドリが鳴いている。私はゆっくりとまぶたを閉じた。自分が自分自身から遊離して、ひどく冷めた目つきで私を見ているような気がする。
 もしかしたら、あのヒヨドリと同じく、本当の私も暗い木影からこっちを眺めているのかもしれない。
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