第41話

文字数 2,372文字

 藤色のお召しに唐草模様の帯を締めてドアを開くと、ちょうどやえが螺旋階段をゆっくり上ってくるところだった。
「茉莉花様」やえは笠木の薔薇の浮き彫りに手をのせた。「これからお出かけですか? 予定を変えるならそう仰ってくださればよろしいのに。この陽気ですからね、やえはフルーツポンチを拵えましたよ。ただ葡萄酒がちょっとばかり足りませんで、代わりにシロップを足したんですけれども、彰様がラム酒でもいいだろうと仰りますんで、やえめには欧米のお酒のことはよく分かりませんから、そのラムというのを舐めてみたらちいとばかりきつい気がしましたんですが」
「やえ」
 やえは黄ばんだ目をはっと開いてお喋りをやめた。
「茉莉花様」やえは踊り場まで上ると、私の二の腕を取って部屋へ連れ戻そうとした。「お顔が青うございます。お出かけはおよしになってはいかがです? 茉莉花様は幼いころからお天気の変わり目にはよくお熱を出しましたから。フルーツポンチは彰様にお出しすることにして、缶詰でよろしければすぐに冷たいものをお持ちしましょう。ええ、今日はもうお休みになるのがよろしいですよ」
「やえ」
 私は自分でも意味の分からぬままそうくり返した。葡萄酒かラム酒かで頭を悩ませるやえ。視力がずんと落ちたのに、私の気分や体調を一目で見抜いてしまうやえ。赤ん坊のころから私を知って、ずっとわがままを許してくれたやえ。
 瞬きをくり返すと、私はかさかさした手を自分の両手で包んだ。
「どうしても行かなくちゃならないの。お友達が助けを必要としているから」
「それは」とやえは口籠った。「茉莉花様でないといけないんでしょうか?」
「私でないといけないの」
「それなら、なるべく早くお帰りになってくださいまし。今晩はおうどんにいたしましょう。鶏で出汁をとりまして、生姜や葱を入れると、それは体が温まりまして汗がずんと出るんです。それからバスタブにつかって、体が冷えきらないうちにベッドにお入りください。こういう日にかぎって夜は冷えるものですから」
「ありがとう」
「蓮沼を呼びましょうか」
「いいの。市電で行くから」
「いけません。今電車に揺られてごらんなさい。あの山吹色のぼんぼり玉を見てるうちに、頭がぼうっとなってしまいますよ」
「電灯には慣れっこよ」
「いいえ、だめです。たまにはやえめの言うことを素直にお聞きください」
 そう言うと、やえは階段を下りていってしまった。
 私はやえをここまで心配させて何をしたいのだろう? フルーツポンチを袖にして、蓮沼を煩わせて……それで碧海に何を告げようというのだろう?
 私は巾着を胸に抱くと、やえの後を追うように階段を下りていった。
 車窓の景色には緑が流れ、赤が流れ、その二色が混じって黒くなり、その黒を背景に金色が棚引いて渦を巻くようだった。貧血だろうか? バックミラーをのぞく蓮沼の目もどこか気遣わしげに見える。私は彼の注意をそらすために声をかけた。
「覚えてる? 私を女学校へ送ってくれたころのこと」
「ええ、忘れもしません」
「毎朝送り迎えは大変だった?」
「いいえ。茉莉花様はたくさんのお嬢さんたちに混じっても一目で分かりましたから」
「なぜ? そんなに背の高い方でもないのに」
「分かりません。ですが、分かるものは分かるのです」
 碧海は先輩の洋画家が建てたという、ちょっと風変わりな文化住宅を借りている。白い柵に囲まれた縦長な敷地に、赤い片屋根が急斜面を描いている。画家が住むのにふさわしそうな御伽噺の家だ。
 ドアを開けた碧海は寝起きらしく、旋毛の方向に乱れた髪を掻き上げながらまぶしそうに目を細めた。
「着物とは珍しいね」
「ええ」私は笑みを浮かべて碧海を見つめた。「上がっても?」
「もちろん」
 採光を重視した仕事場は白漆喰に焦げ茶色の梁が目立ち、どこか英吉利のティンバー様式の建物を思わせる。碧海が青い唐草模様のカーテンを開くと、同じ意匠の絨毯のほこりが白く浮き立って見えた。部屋には大小のソファが合計三脚あり、その間に画架が点々と散らばっている。それがどこか映写機じみた効果を及ぼし、部屋自体が別の世界への入口になっているように感じられた。
 私は描きかけの絵画を眺めた。油絵具を乾かす間にほかのものにも取りかかるのだろう。明らかに注文品の肖像画や、別荘の庭を描いた風景画、木炭のデッサン画もある。部屋の片側を占領する棚には完成した絵が無造作に詰めこまれ、上の方には画集や小説などがずらりと並んでいる。机はもうこれ自体が芸術作品と呼べそうなほど絵の具まみれで、その駄目押しをするように大小様々な筆が踊っている。その筆先にも乾いた絵の具がこびりついている。私はテレビン油のつんとした匂いを嗅いだ。
 画架に立てかけられた絵を指して碧海が言った。
「今、『消えた女』に取りかかってるところだ。あれから色々着想が湧いてね、一気呵成に仕上げてしまおうと思っている」
 なるほどそこには確かに描きかけの絵がある。しかし、それは輪郭線もなければ色彩の統一もない、幼児の落書きとしか思えない抽象画だった。
 碧海はおかしくなってしまったのだろうか?
「邪魔したみたいだね」
「いや、構わん」碧海は無精髭をこすって言った。「本当はいったん頭を落ち着かせた方がいいんだ。紅茶を飲むか? 狸親父が置いてったやつがあるんだ。無論、お前が満足するか分からんが」
「いただきます」
 碧海がキッチンへ下りてゆくと、私は息をついて目の前の絵をもう一度見つめた。
 赤と黒の乱舞。陽射しにくらんだ目の奥に流れていたのと同じ色。朱色でも、薔薇色でも、丹色でもない本物の紅色。
 私は随分と長い間その絵とも色彩のうねりともつかないものを鑑賞していたらしい。絵にのばしかけた手を引っこめると、ちょうど碧海が紅茶を運んできたところだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み