第4話

文字数 1,967文字

 菫色の小紋に幾何学模様の名古屋帯を締めると、袴をはいていなくとも女学生時代の自分に戻ってしまうようだ。しかし、これはある意味戦闘服でもあるのだ。肩の上で切りそろえた髪を鏡の前でなでつけ、小さく咳払いしてから立ち上がる。戦闘、開始。私はドアを開き、ふっかりとした葡萄酒色の絨毯を踏みながら緩やかな弧を描く階段を下りてゆく。年月をへて色を深めたオーク材の手すりには薔薇が浮き彫りにされ、縦長のステンドグラスからこぼれる光がそのくぼみに小さな虹を描いている。
 私はスチームの効いたダイニング・ルームに入ると、庭の斜面を見下ろす席に腰を下ろした。季節柄薔薇は寒々しい枝ばかりで、少し赤らんだ棘を膨らませている。私は給仕にパンとバタ、それに温かな紅茶を頼んだ。
「まあ、珍しい。茉莉花さんがこんな時間に下りてくるなんて」
 私は初めて目の前にいる母に気づいたように微笑み返した。
「ええ。お医者様が朝の散歩は健康に良いって仰って」
「それで頬が綺麗な薔薇色なのね。若いって素晴らしいわ。私にはこんな日に散歩する元気なんてないもの」
 私は母の黒いベルベットのワンピースと、その襟についた泡のようなレースとブローチを見つめた。
「でも、お母様もお出かけでいらっしゃるんでしょう?」
「まあ、なぜ?」
 母はおもむろにスープを口へ運んだ。
「だって、おめかしされていますもの」
「おめかしなんて」母は目線を上げずに言った。「今日はお友達が集まって慈善パーティの準備をするだけよ。可哀想な子どもたちのために」
 母は「可哀想」という言葉を、まるで砂糖菓子でも舐るようにうっとりと発音した。彼女にとって慈善は自分の優位性を確認するための重要事なのだ。それは通称華族銀行の倒産と同時に父親が自殺し、自宅でいかがわしい料亭を営むまでに落ちぶれていた自分を忘れるための手段でもあるのだろう。金で買う爵位。私は若い義母の胸元を見つめながら口の中でそうつぶやいた。
「そのカメオは誰です?」
「えっ?」
「メディアでしょうか? それとも、クリュタイムネストラー?」
「私には難しいことは分からないわ。そうね……アプロディーテじゃないかしら」
「軽井沢へ行かれるんでしょう?」
「まさか」と言って母は紅茶を一口飲んだ。「こんな寒い時期に」
「軽井沢でよくそのブローチをされていたから、また牧師様とお会いになるんじゃないかと思ってしまいましたの」
 給仕が運んできたパンは狐色にほどよく焼け、かたわらにはバタだけでなくジャムも添えられている。私は野苺のジャムをパンに塗りながら、黒い鳥の羽根を一枚、一枚むしってゆく自分を想像した。
「今年の夏も行かれるんでしょう? 軽井沢へ」
「旅行といえば」母は矛先を変えた。「貴方、今年こそは山神祭に参加してもらいますよ」
 気勢を削がれた私は手を止めてつと顔を上げた。母は長い髪をきっちり編みこんでいたが、その首筋では後毛が蛇のような弧を描いてのたくっている。
「どうあっても今年は家族全員で行かなきゃならないわ。貴方も知ってるでしょう? あの村じゃ、お父様の祖父様は現人神のように崇められていたって。鉱山の無事を祈るための大切なお祭りですからね。わがままはもう許されませんよ。いくら退屈だって……」
「行きます」
 今度は母が手を止め、切れ長な瞳で私をじっと見すえた。私はその瞳を見つめ返してくり返した。
「そんなに大切なお祭りなら参加します。その代わり、お友達も連れていっていいかしら?」
「それは構いませんよ。でも、去年のような人は困るわ。あれじゃあまるで……」
「アカ?」
「茉莉花さん」と言って、母は思い直したように忙しなくスープを飲んだ。「私は彰さんに悪い影響がなければと思っているだけです。桃香さんのようなお友達なら別ですけど」
「悪い影響を人に与えたのはむしろ兄の方でしょう」
「彰さんはもう大丈夫ですよ。立派にお父様の後を継がれるに決まっています。それより、貴方の方が心配よ。いいこと、軽井沢でお知り合いになった牧師様が良いお友達を紹介してくれるの。子爵家の御令息で、留学先の亜米利加から戻られたばかり。昔、お父様もあちらへ留学されて、当時は最新式だったあの……何だったかしら」
「ベッセマー製鋼法」
「そう……とにかく学のある方よ。お会いして損はないと思うの」
 私は無言で微笑むと、パンをかじって庭を眺めた。鳥打帽をかぶった庭師が腰をかがめて落ち葉を拾い集めている。
「でも、その人より私のお友達の方が助けを必要としていると思うの」
「茉莉花さん?」
「汝の隣人を愛せ……そうでしょ?」
 母は目を細め、まるで共犯者のように淡い笑みを浮かべた。
「ええ、そうね。それが人類愛ですもの」
 今日の勝負は引き分けか。私は紅茶にミルクを落とすと、スプーンでかき混ぜずにその渦を口へ運んだ。
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