第24話

文字数 1,903文字

 真新しいシャツにグレーのスーツ、霜降りのツィードのコートをはおり、肩までの髪を鳥打帽の中にきっちりと収める。革の長靴の紐をきゅっと締め、手にはナショナルの携行用角形ランプ。オハケがざわめく数寄屋門をくぐり、長い石段をカッ、カッと音を立てながら下りてゆく。すると、石段の脇に並んだ杉の影がいびつに膨らみ、その輪郭が次第に人の形に変化していった。
 ランプの光に照らされた碧海は、まるで現場を押さえられた犯人のように手で顔を隠した。
「随分な挨拶だな」
 私はランプを彼に向けたまま言った。
「幽霊ならこれで退散するだろう」
「なるほど」丁子色に透けた瞳を瞬かせて碧海は笑った。「意趣返しはいいが、あまり目立ってはお前も困るだろう。幸い今夜は満月だ。早くその文明の利器をしまえ」
 私はランプを消し、碧海と肩を並べて階段を下りていった。彼はあの継ぎのあるインヴァネスの代わりに、少し袖の足りない木綿の羽織をはおっていた。
「洲楽のだね」
 碧海は草履の音を軽く立てながら言った。
「しばらく匿ってもらっていた。土砂にまみれて消えた方が好都合だったんだ」
「なぜ黒杜に?」
「あの絵画のモデルに気づかないとでも?」
「やっぱり……」
「ああ。彼女の謎を解くのにふさわしい地はここよりほかにない」
 私が碧海をにらむと、ちょうど月が叢雲に隠れ、月長石のような淡い光の覆いが棚引くばかりになった。
「やはり、狭霧か?」
「あいつがお前の性格を把握していなくてよかった。手紙の文字の一部が不自然に太いし、軽くナイフで削ったのかその周りが毛羽立っていた。お前なら間違えた文字を分からぬように修正するんじゃなく、ふざけた文言にでも書き換えただろう。しかし、その時はまだ相手の正体がつかめなかったから、ぜひとも貯水池まで出向かなきゃならなかったんだ」
「危険だと思わなかったのか?」
「承知のうえだ。敵の意識が俺に向いてるなら、そのままにしておいた方がいいと思ったのもある。狭霧はいらない人間を消すつもりで、まんまと馬脚を現してしまったというわけだ」
「やつの狙いは?」
「分からん。ただ、無理を押し通そうとすれば綻びが生じる。やつはその綻びをどうにか繕いたいんだろう」
「人一人消しても?」
「一人ならいいが」
「どういう意味だ?」
「あの男は喰わせ者だ。大方、君の義母を父上の元へ送りこんだのもやつだろう」
「そうかもしれない」
 道は次第に細くなり、月が雲間から顔をのぞかせるたびに地面が砂浜のように明るく輝く。私は碧海の影を追いかけた。蹴上が半ば土に埋もれた、階段とも急坂ともつかぬものをよじ登り、湿った落ち葉を踏みしめて隈笹をかき分けてゆく。土の匂いが鼻をつき、転びそうになってつかんだ木の根がぷちぷちと音を立てて千切れ、あっ、と思って宙をかくとその手は碧海につかまれていた。
「登山はどうも苦手だ」
「これが登山か?」
「そもそもどこへ向かってるんだ?」
「呆れたな」と碧海は息をついた。「それも知らずについてきたのか」
「殊勝な人間なんだ」
「眠り薬入りの甘酒を飲まずにすんだのは奇跡だな」
「君が教えてくれたんじゃないの?」
「あれは洲楽だ。大方、俺の筆跡を真似たんだろう……それが分からないなら、お前は本物の素人探偵ということだ」
「素人に本物も偽物もあるか」
 碧海は話を切り上げて、そら、というふうに顎をしゃくった。行手には杉の丸太をそのまま用いた鳥居が立っている。しかし、その注連縄は中途で切れ、細い切先がふらふらと頼りなく風に揺れている。その鳥居の前に鎮座している龍の狛犬の輪郭線は崩れ、髭の先もなくなってしまっている。
「黒杜の社さ」と、碧海が落ち葉のたまった参道を歩きながら言った。
「ここが?」
「無論、立派な方は別にある。藁蛇様はそこにいたんだろう? だが、本物の龍がいるのはこっちだ。俺自身が後をつけたんだから間違いない」
 社の屋根には枯葉が積もり、鈴は鳴らないように梁に結わえつけられている。私は再びランプを灯した。社殿の連子格子の奥に、蜘蛛の巣が帯のように巻きついた神輿が見える。その足下にはほこりだらけの酒瓶が並んでいた。
 碧海は躊躇なくその戸を引き、神輿の手前の床を指して言った。
「見ろ。ここだけほこりがない」
 床のその部分には四角い切れこみがあり、金属の取手がランプを受けて鈍色に光っている。碧海はその把手をつかんで持ち上げた。すると、ぎいっという耳障りな音とともに昏々とした洞窟が口を開け、ぬるついた臓腑を光の下にさらした。
「菫はここを私に知られたくなかったのか」
 私がそうつぶやくと、碧海は片膝をついた姿勢で振り返った。
「あるいは、黒杜の人間全てが」
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