第28話

文字数 2,062文字

「早く病院へ」
 私は絹のネクタイを解いて紫苑に渡した。彼はそれを受け取ったが、すぐに傷を押さえようとはせず、代わりに小母が布舞用の白木綿を包帯にして巻きだした。
 紫苑はネクタイを私に返した。何かが間違っている。そう感じたのは、ネクタイを受け取ってポケットにねじこんだその時だった。
「碧海」小父が仁王立ちになったまま言った。「帰っていたんだな」
 うっ、とうめいて碧海は自力で肩を入れ、大きなため息をついた。
「あんたには関係ない」
「今までどこにいた?」
「洲楽のところに」
「なぜ黙っていた?」
「俺が俺の生まれた家にいるのに、なぜ誰かに説明しなきゃならない?」
 すると、洲楽は二人の間に割って入り、なぜか私の方を見ながら弁明した。
「紫苑様はご家族の方に遠慮なさったんですよ。養父母への手前、黒杜へ帰るとも言いづらいわけですし、はい」
 すると、碧海は亡くなった先の小母と小父の息子……つまり、黒杜の分家の長男なのだろうか? それなら、彼は睡蓮の兄ということになるが……。
「碧海」と私は声をかけた。「これは君の苗字じゃなかったのか?」
「そう言った覚えはない」
「ともかく、これで形としては太夫の資格を持つ者が八人揃ったというわけだ」
 叔父はそう言うと、小さいが、よく光る黒曜石のような瞳で私を見すえた。
「八人?」
「神返しもせずに神楽を終いにすれば、巫女の託宣通り恐ろしいことが起こるだろう。それでは私たちの祖先が払ってきた犠牲も無駄になる。御子神様が我らを守ってくださるに違いない。神々を饗応し、つつがなく帰っていただくためには、これ、この通り神楽を続ける義務がある」
 叔父は私の肩を抱き、静かに注連縄の外へ誘った。
 私は舞処をぼうっと眺めた。叔母が予備の白木綿を岩盤に広がる血潮にかけると、その繊維にそって赤い色が勢いよく走っていった。叔父はその辺りに浄めの塩を振りかけている。それから、叔母は何事もなかったように笛を取り、波を描くようにその甲高い音を響かせた。叔父の一郎王子、小父の二郎王子、小母の三郎王子、それに碧海の四郎王子。彼らの前には苦しげに息をつく紫苑の五郎王子が座し、一同を取りまとめる文撰博士の洲楽が口上を述べている。
 『五王子』の演目がすむと、彼らは再び窟道の奥へ姿を消した。碧海も紫苑と何やら話しながらそれに続いた。私は石筍にもたれ、ゆっくりと指を折って数えた。
 叔父、小父、叔母、小母、紫苑、碧海、洲楽、それに私の計八人……。
 それなら、祖父と菫は今どこにいるのだろう?
 ふと、鎧の腹部を押さえた紫苑の筋張った手を思い出し、私は吐き気混じりの眩暈に襲われた。
 振り返ると、岩肌を鑿や楔でくり抜いた部分に祭壇が設られ、灯明がほのかな風に揺れている。私は炎に誘われる蛾のようにその小さな祭壇に歩み寄った。
 紙燭の奥に榊と酒、中央には見覚えのある神楽面が飾られている。迷路文とも、隈取ともつかぬ線を顔中に走らせたお面。その渦模様のくぼみが炎でちらちらとあおられ、かすかに笑っているようにも見える。一方、白磁の皿の上には何か赤黒いものが盛られている。クリーム色の筋のついた、やや灰みを帯びた塊には血管がいくつも浮き出ている……それを目にした瞬間、私はその場にくずおれてしまった。
 私の胸が何かに呼応するようにトットッと音を立てている。
 これは菫の心臓だろうか? この生々しい肉の塊が彼女の一部だというのだろうか?
 私はなぜ見過ごしてしまったのだろう? 菫はあんな瞳で私を見つめていたのに。あんなにも温かなてのひらで私の手を包んできたのに。
 本当に、私は何も気づいていなかったのだろうか?
 不穏な託宣があったからには、神へ犠牲を捧げる祭りが催されてもおかしくない。黒杜の巫女はいずれ御子神として祀られるのだから、遅かれ早かれ村のために人ならぬ身とならねばならない。予定通りなら次の御子神様は睡蓮だったはず。そして、その次は菫。しかし、もし菫が拒絶すれば次に選ばれるのはきっと……。
 なぜ、私はあの手紙をすぐに開かなかったのだろう?
 どうっと音がして我に返ると、七人の太夫が担いだ藁蛇が赤い口を開けて舞処へなだれこむところだった。洲楽は舞処の中央で、巨大な龍を仰ぎ見るように対峙している。彼の手にした榊が震え、光と闇、朝と夜の交歓を告げ知らせている。
 古き神の龍が新しき神の在します神楽殿へ押し入ると、自分の尾を自分でくわえる蛇のように全てのものが溶け、混じり合う。
 ふいに、藁蛇の尾を担いだ紫苑がこちらを向いて微笑んだ。
 彼の黒々とした瞳は何も見ず、何も理解しようとせず、それでいて全てを見通すように透き通っている。それは菫と同じ瞳だった。
 私は自分の指先を見つめた。さっき紫苑にネクタイを渡す時についた血が、まだ乾ききらずにぬるついている。
 私はその指を口に運び、そっと舐めた。
 鉄に似た重い香りが……遥か祖先から伝わる脈動が、蛇とともに私の体内へ食いこんでくる。
 自分の唇に、睡蓮と同じ笑みが浮かんでいるのを私は感じた。
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