第26話

文字数 2,534文字

 革靴の底にはまだ赤い色がこびりついている。私はその色が一歩、一歩褪せてゆくのを祈りながら迷路状に入り組んだ窟内をさまよっていた。血痕はもうどこにも見当たらなかったが、私たちは鍾乳石の色が濁る方へ、かすかな音を頼りに進んでいった。
 頭上には大きな氷柱石が垂れ下がり、湧き水が洞壁をぬらぬらと光らせ、足下で小さな流れを作り出している。その透明な黒い水を遡るように私たちは歩き続けた。ひゅるり、ひゅうるりと笛の音らしきものが聞こえては途切れ、途切れてはまた聞こえる。それは逃げ水と似て、どうどうと低い音を立てながら暗渠へ消え、見失ったかと思うとまた細い流れとなって現れるのだった。
 ふと、碧海が二股に分かれた道の前で足を止めた。彼もまさか黒杜の地にこれほど巨大な洞穴があるとは考えなかったのだろう。道の中央にそびえ立つ石筍は、深海に沈んだまま数百年を経た帆柱のようにいびつな形をしている。
「本物の音とこだまが聞き分けられればいいんだが」碧海はため息混じりに言った。「生憎俺は見る方の専門なんだ」
「聞こうとするからいけない」と私は言った。「音は二重三重になるし、ランプで照らされた景色は細切れで役に立たない。それにカビっぽい水の匂い。指先に触れるのは冷たい岩肌ばかり。あと役に立ちそうなものは?」
「そうだな」碧海はランプで透けた瞳を細めた。「直感?」
「その通り」
 私は左の道へ足を踏み入れた。しかし、本当は小さな嘘をついたのだ。いつからか、私は細切れの景色に懐かしいものを感じ始めていた。何かを思い出したわけではない。地図で見たのとも違う。幼いころ、誰かに連れられてこの道を通った……いや、きっと私の血の中に眠る記憶が蘇ってくるのだろう。私の母や、祖母、そのまた母が通り抜けてきた道だから。
 足下は滑りやすい岩で、時には石筍につかまり、氷柱石に側頭部をしこたま打ちつけながらはうように前進してゆく。ぼっかり開いた怪物の口からのぞきこむと、その先にはさらに巨大な空洞が待ち構えていた。
 鉄の三脚架の上で燃え盛る松明が、四方を竹笹で区切った舞処を丹色に照らしている。
 その舞処の片隅に太夫が三人座っている。大太鼓の叔父、締め太鼓の小父、鉦の小母。皆本家で行われた神楽とは違って白装束をまとっている。
 叔父が撥を取り上げ、太鼓をたたきながら低い声で歌いだすと、それに続いて締め太鼓と鉦も鳴りだした。すると、陰からぬらりと神楽面をまとった男が現れた。金襴の朱色の法衣に金色の袴。手には榊と扇を携えている。
「スサノオ……きっと『大蛇』の演目だ」
 そうささやくと、碧海は唇に人差し指を当てて私を岩陰に引きこんだ。
 出雲国の鳥髪という場所で、スサノオは八岐大蛇が若い娘をさらうという噂を耳にする。彼は自分が大蛇を退治したら、アシナヅチとテナヅチの娘であるクシナダヒメと結婚したいと申し出る。『古事記』でも特に有名なくだりだ。
 神楽面で素顔は分からないが、首筋の太さと軽快な足捌きからして紫苑が演じているのだろう。衣装の重さを感じさせない足取りで笛の音に乗って舞い、金色の扇を蝶のようにはたはたと閃かせている。
 音楽がやんでスサノオが口上を述べると、アシナヅチとテナヅチ、緋色の打掛をまとったクシナダヒメが登場した。私は息をのんで舞処を見つめた。腰の曲がったアシナヅチを演じているのは明らかに洲楽だ。神楽太夫は全部で八人のはず。背の高さからいってテナヅチは叔母、クシナダヒメは睡蓮が演じているようだ。それなら、菫はどこにいるのだろう?
 ふいに、クシナダヒメが振り返った気がして私は顔を引っこめた。彼女の顔は白い胡粉の塗られた神楽面にすっぽりと覆われている。しかし、小さな穴からのぞく蜂蜜色の瞳は確かに私を捉えていた。
 叔父は太鼓をたたきながら声高く朗々と歌い上げる。

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに
 八重垣作る その八重垣を

 スサノオは策略を講じる。八岐大蛇に毒酒を飲ませ、酔っ払って正体を失ったところを襲おうというのだ。アシナヅチとテナヅチは酒樽を用意してから退場する。一体、洲楽はなぜここにいるのだろう? 彼の滑稽な仕草は神を饗応するためというより、何か捨て鉢な後ろ暗いものを感じさせる。しかし、闇の底からはい出た赤黒い塊を目にすると、様々な考えもどこかへ雲散霧消してしまった。それは藁蛇でもなく、鱗模様の衣装をまとった人間でもない、影そのものが形をなして現れたような不気味な物体だった。
 太鼓が激しく打ち鳴らされ、笛の音は緩やかな波を描きながら震える。大蛇の鱗は濡れた赤松の幹のようにぬらぬらと光り、その目玉には横たわった舟のような形の瞳孔がある。大蛇の木乃伊だろうか? それとも、洲楽の人形? 松明の炎が揺れるとそのざらついた腹がうねり、にゅうっと頭部が上がり、血をすすったばかりの細長い舌がちらちらとうごめいた。やがて、その鎌首が酒樽の中に隠れ、風が狭い場所を吹き抜けるような音がしたかと思うと、大蛇は身動き一つしなくなった。スサノオが再び現れ、アシナヅチが蛇の背中をそっと突っつく。大蛇は眠ってしまったらしい。スサノオは腰の太刀をすうっと抜いて大蛇に切りかかる。しかし、大蛇は素早く身をかわし、反対にスサノオにからみついてその体を締めつけようとする。スサノオは赤黒いとぐろの海で溺れ、天へ掲げた白刃だけが皎々と輝いている。
 スサノオは渾身の力を振り絞って大蛇を振り解き、ついにその頭を切り落とす。銀色の光が走り、黒い塊が血潮を撒きまらしながらごろごろと地面に転がる。岩盤に描かれた血跡は、炎に照らされて柘榴石のように艶々と光っている。スサノオは大蛇の頭部を拾って高々と持ち上げる。その金色の法衣にも血飛沫がついている。
 大蛇の尾からは草那芸之太刀が現れ、二本の刀を掲げたスサノオとクシナダヒメの婚礼で終幕となる……スサノオは肩で息をつき、大蛇の頭部を重たげに提げている。それから、彼の輪郭が闇の中に溶けていった。残されたクシナダヒメは、誰もいない観客席へ向かってお辞儀し、緋色の袖を揺らしてスサノオの後を追った。神楽面を軽くずらし、血潮の飛んだ指先を愛おしそうに舐りながら……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み