第29話

文字数 2,422文字

 窓から青い色が忍びこんでくる。夜明けの色なのか、夜そのものを映す色なのか分からない。そもそも、私には自分がどこにいるのかさえ判断できなかった。あれから何時間、何日経ったのかも……断言できるのは、カーテンを閉め忘れたということだけだ。
 砥粉色の壁につるばみ色のゆがんだ梁。これでも場所がはっきりしない。正面の壁の天井に近い辺りには、白っぽい長方形が浮かんでいる。
 私はランプを灯して壁に近づけた。それから、人差し指の先でざらついた壁に触れた。その白さは私に何かを伝えたがっているようだ。そう、私が忘れている大切なことを……視線が旅行鞄の上をさまよう。そして、指が留め金を外し、荷物を引っ張り出し、中敷きをそっと取り外す。そこにもやはり白い長方形が浮かんでいる。ただし、こちらはやや黄ばんでいるが。

 貴方様

 私は、私の気持ちを述べるためにこの手紙を綴らなければなりません。今までに何度筆を執り、頭を悩ませ、反故を作り、燃やしてしまったことか。これは私の最後の手紙になるでしょう。この手紙に封をする時が、そのまま私が永遠に口をつぐむ時です。
 愛情とは細やかで、美しく、善なるものと教えられて育った私には、それは到底理解できないものに思われました。あの人への感情は海外の小説にも、友人の話にも、歌舞伎にも神楽にも出てこない。そう、まるで夢幻の世界にありながら、絶えず忙しない呼吸をしているようなものでした。私は囚われてしまった。そして、そこからもう自力では逃げ出せず、また逃げ出す気にもなれないのです。このような人生が可能なものでしょうか? とてもそうは思われません。
 ですから、私があの企みを知った時、私の唇に生じたわななきは恐怖のそれではなく、むしろ喜びのために生まれたものでした。貴方が生まれたことが、私の人生に一つの意味を与えてくれた。そして、自由をも与えてくれたのです。そう聞けば、貴方は嫌な気持ちになるでしょう? 責任を放り出そうとしていると考えて。けれど、この責務はとても素晴らしい、幸せな自己充足の時を私に与えてくれたのです。そこにいるのはありきたりな女と赤ん坊。それでいて、ここには世界の全てが含まれているという安堵感。そう、この安堵感が私に翼を与えてくれたのです。
 振り返ると、私の歩いてきた道が私を見つめ返しているようでした。そして、それは今までのように堅苦しい表情を浮かべることなく、私を懐に抱きしめてくれたのです。私は何の躊躇もなく決意することができました。まるで浅葱色に晴れた日に、ふうっと深呼吸するような気持ちで。
 私の存在はただ一度きりの、平凡な、すぐに忘れられてしまうものです。そして、誰もがそうするように、私も貴方の成長を楽しみにし、老い、自然に枯れてゆくべきなのかもしれません。それでも、私はこんなふうに考えることがあるのです。人はまるで果実の内側に住んでいるように、枝を伝って送られてくる栄養を受け取りながら、自分自身の世界のみを生きている。そして、実が落ちれば元の土へ返るだけ。けれど、その前に少しなりとも自分の皮を破ることができたら?
 私の言葉は曖昧で、分かりづらく、要領を得ないことばかりでしょう? そう、周りの人は皆私の体が衰えると同時に頭も働かなくなって、奇妙なことばかり口にするようになったと思って悲しんでいます……いいえ、よしましょう。私は泣き言を綴るために筆を執ったのではないのですから。
 彼らはまるで私のためにわざわざ草根木食を用意してくれたようなものです。今送られてくる栄養といえば、点滴の細い管から送られてくる透明な液体ばかり。それでいて、彼らが日々私の食事に混ぜてくれたヒ素が、私の体内をもう取り返しようもないほど蝕んでいるのです。それはやがて自分の目的を遂げるでしょう。まるで密教の僧侶が肉や魚を避け、鶏冠石の採れる山の草木のみを口にし、少しずつそれを摂取し、生きながらに衆生を守る仏となるように。
 柔らかな笛の音は本当に鳴っているのでしょうか? 風が吹いているのが痩せ衰えた私の耳にそう聞こえるだけでしょうか? それとも、私の血の中に眠る巫女が奏でているのでしょうか?
 ただ一つだけ、私も復讐しましょう。復讐というのが大袈裟なら、他愛ない悪戯を。私は本当の意図を貴方のほかの誰にも伝えません。ですから、彼らは自分たちの罪によって一つの命が潰え去ったと思うはずです。もし、彼らにもある程度の良心があり、後悔するというならそれもよいでしょう。一方、それを罪として自覚しないなら……本当は、それこそが一番の復讐になるのです。
 意識されないものは、まるで川面から顔を出さない石のようにただそこにあります。それでいながら、やはり川の流れはその石によって妨げられているのです。ちゃんと石に気づけば、動かすことも、取り除くこともできるでしょう。けれど、意識されない石はずっとそこにあり続けるのです。そして、いったん洪水が起きれば全てが押し流され、破壊され、形を失ってしまいます。それが一人の人間の身に起きるとしたら、必ずや悲惨な形をとることになるでしょう。
 貴方はそのままでいいのです。貴方は貴方らしく。何一つ憎むことも、恐れることもありません。
 私は貴方によって意味を与えられ、貴方のおかげで全てを受け取り消えてゆきます。けれど、存在そのものが失われることはありません。私は黒杜の血管となり、そこを流れる力は貴方に受け継がれ、人々と同化し、貴方たちを守り続けるでしょう。それが御子神になることの意味なのです。そして、本来的には、全ての人がそのような存在であるはずなのです。私はただそれを形として残すだけ。あの笛の音の中に。貴方の血の中に。
 ですから、さようならは言いません。私は貴方の中で永遠に眠っているのですから。

                                    母より
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