第13話

文字数 2,193文字

 眠りが途切れ途切れになり、聞こえてくる音も現実か幻か分からない。床板が飴色に光る電車に乗っていると思ったら、次にはそれがトロッコになり、奇妙な駅に降り立ったようでもあった。
 私は諦めて体を起こし、サイドテーブルに置かれた金時計を手に取った。蓋を開くとそこにはM・Sの文字がローマン体で彫られ、薄い縁にはまだ乾いた泥がこびりついている。傷一つないものの、これは確かに土砂から掘り起こされたばかりの時計だ。
 頭の中に狭霧の声が響いている。

 どうか覚えておいてください。この僕も貴方と偶然出会ったひと時に胸躍らせている一人だと。

 つまり、あの言葉には表と裏の意味があったのだ。おそらく、彼は母に命じられて私を見張っていたのだろう。そして、偶然私が碧海の部屋に手紙を忍ばせたところを目撃した。そして、私が素早く立ち去ったのをいいことに、あの手紙をいったん抜き取り、ある部分を書き換えたうえで戻したに違いない。
 私は手紙の中で、碧海に「ハス池」に来るようにと伝えておいた。しかし、狭霧はそれを「貯水池」と書き換えたのだろう。私は祖父のように崩し字では書かないから、改竄するのもそれほど苦労しなかったはずだ。
 土砂の撤去作業は二日たってもまだ続けられている。碧海の父が昼ごろ到着する予定だが、見せられるものといってはこの金時計一つしかない。彼の財布も、帽子も、コートも見つかってはいない。そして、彼自身も……。
 鉱毒の流出だけでなく、人も亡くなったとなれば大騒ぎになるに決まっている。かつて、曽祖父は一財産なげうって防毒工事を行い、村に学校や病院を建て、勉学運動双方の奨学金制度を設けた。父も大学や病院に多額の寄付をしている。しかし、この事故一つで全てが無意味になってしまうかもしれない……父は一睡もせずに事後処理に追われ、兄は一足先に東京の本社へ戻った。そして、私はといえば、間抜け面を浮かべて石ころだらけの川を見下ろすことくらいしかできない。
「やえ、狭霧を呼んで」
 すると、やえのいびきがひたっとやんだ。
「茉莉花様」やえは寝返りを打って言った。「お休みになれないのでございますか」
「いいから、狭霧を呼んでちょうだい。あの男はまだいるんでしょう?」
「はあ。ですが、ご朝食どころかお作りもまだ……」
「あの男のために化粧をしろと?」
 やえはしぶしぶ起きだして着替えを始めた。私はその丸まった背中に向けてまた声をかけた。
「この屋敷の洗濯は誰の担当? ちょっとききたいことがあるの」
 やえは不審な顔をしたが、ようやく目が覚めてきたのか二、三度うなずくと自分の肩をもみながら言った。
「それじゃ、老骨に鞭打つことにいたしましょう」
 絨毯をこするような草履の音が遠のいてゆく……しばらくすると、ノックの音がして狭霧が顔を出した。
「眠れないそうですね」
 狭霧は灰色のスーツ姿で、そのぴんとしたシャツのカラーは私の寝乱れた襟と著しい対照をなしていたに違いない。分厚いゴブラン織りのカーテンは開けておいたが、窓ガラスにはまだ仄青い影が下り、ただその枠だけがきらきらと虹色に光っている。
「全部話しなさい」と私は切り出した。「お前の悪事を洗いざらい」
「何を仰います」狭霧は左の口角だけを上げて笑った。「相当ショックを受けられたようですね。やはり、静かな場所で療養された方がよいのでは?」
「それで厄介払いを?」
「とんでもない」
 狭霧は私の右手を取ってそっと唇を寄せた。私は手を振り払い、その返礼に彼をにらみつけた。
「あの手紙を改竄したのはお前でしょう。そうでなければ、碧海が雨の降る中貯水池になど行くはずがない。彼をどこへやったの?」
「これはまた……」
「薄笑いはやめなさい。碧海を貯水池へ突き落としたの? 答えなければ今すぐ警察に突き出します」
「何か証拠でも?」
「あります」今度は私がいびつに笑った。「女中の話によると、お前はあの嵐の翌朝洗濯を申しつけたそうね。その襟の上半分と袖先だけが泥で汚れていたって。レーンコートを着て出かけたのでしょう?」
 狭霧の顔に痙攣が走る。しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐに小石を受けた水面のように平静な表情に戻った。
 狭霧はベッドに腰かけると、こころもち顎を上げて言った。
「それなら白状してしまいましょう。実は、ある村娘と良い仲になっておりましてね、あの晩こっそり屋敷を抜け出して落ち合ったんです。必要なら証言させましょうか?」
「その娘にいくら渡すつもり?」
「これはこれは。しかし、私を警察に突き出したところでどうなります? 汚れた金時計と、尋常小学校もろくに通わなかった女中の曖昧な証言。これで私がどんな罪に問われるというんです?」
「お前は」
 すると、狭霧は私の頬に冷たい手で触れた。
「万一……そう、仮に私が貴方の言うような極悪人だとして……私が貴方ならその男には逆らいませんね。だって、何一つ物的証拠がないんでしょう? 逆らえば、今度は自分がひどい目に遭わされるかもしれない。私ならそんな危ない橋は渡りませんね」
「これは脅迫?」
「いいえ、忠告です。ただの親切心から出た言葉ですよ」
 狭霧はそう言って頬から手を離した。
 私は自分の耳の奥が脈打つのを感じた。

 碧海。今、どこにいる?
 金時計が見つかったからといって、君まで土砂にのまれたなんて信じられない。
 絶対に、信じたくない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み