第35話

文字数 2,623文字

「お怪我の具合は?」
 そうきくと、紫苑は左の口角をひきつらせ、長い指で自分の鎖骨の辺りにそっと触れた。
「数針縫いましたが、もう心配ありません」
「式年神楽はあれで良かったのでしょうか?」
 私が攻勢に出たことに気づいたのか、紫苑は珈琲を口へ運ぶと、そこに珍しい絵画でも飾られているように壁を見上げた。スミレの形をしたランプが彼の頬に波状の影を描いている……それから、彼はしばらく自分のあごをいじっていたが、ふと思い直したように私を見つめた。
「あれ以外どうしようもなかったでしょう。少なくとも僕はそう思います」
「あれ、とは?」
 紫苑は唇を横たわった三日月の形にして笑った。
「貴方には分かっているでしょう」
「ええ、分かっています。でも、分からないこともあります。一体、菫はどこへ行ってしまったんです?」
 紫苑の瞳はふいにかき曇り、その視線は珈琲に浮かぶ絹のような光に移った。
「それも分かっているはずです」
 紅茶のカップを持つ手が震える。水面が揺れれば、私が動揺していることを悟られてしまうのに。
「推測ならできます」私は辛うじて言った。「でも、私が貴方の口から聞きたいのは、もっと直截的な答えです。私の中にはまだどこか……平凡な答えにすがりつきたい自分がいるんです」
「意外だな」紫苑は珈琲を飲んだ。「貴方が言葉を弄ぶなんて」
「それはそちらも同じでしょう」
「それなら、僕にも言いたいことがあります。菫は今行方不明ですが、まもなく例の底なし沼から頭と胸に穴のある遺体が発見されるでしょう。ずっと顔を合わせていなかったとはいえ、彼女は貴方にとって母方の従姉妹だし、僕にとっても父方の従姉妹だ……その後、何事もなかったように葬儀がしめやかに取り行われるでしょう」
「それで……満足ですか? 貴方や、その、叔父さんと叔母さんは。だって、たった一人の跡取り娘でしょう?」
「ああ、何だか話が噛み合わないと思ってました。貴方はまだ知らないんですね」
「えっ?」
「父親は違いますが、彼女は貴方の姉です。ただ正式な結婚の前に産まれた人だし、叔母さんはああいう人だから」
 私には無言でうつむく以外にできることがなかった。今はもう、指先が震えようが震えまいがどうでもよかった。
 紫苑は獲物を追い詰めた喜びで瞳を輝かせ、まるで歌うような口調で言葉を重ねた。
「ですが、僕が貴方に声をかけたのはそれとは別の理由からです。彼女の葬儀からちょうど百日目に位牌や遺骨が全て取り払われます。つまり、彼女は正式な御子神様として祀られるんです。その際に儀式があるんですが、叔母さんはどうしても貴方に参加してほしいそうです。儀式次第を覚えてほしいんでしょう。睡蓮は行方不明、菫は御子神様として祀られるんですから、もう貴方しかいないというわけです」
 まるでオムレツの作り方を説明し終わったように微笑むと、紫苑は瞳を細めて珈琲をまた一口飲んだ。
「本気で言ってるんですか?」
「普通は非難されるでしょうね」紫苑は頬に笑みの名残を浮かべたまま言った。「そのくらいの常識は僕にだってあります。ですが、他人には分からないこともあるんですよ。長年山に囲まれた土地で暮らすうちに、僕たちの家系は段々血が濃くなって、もう自分たちでさえ理解しかねるほどからみ合ってしまいました。ですから、そもそも自分と親族の違いが希薄なんです。それに今まで培ってきた経験と知恵を今更捨てる気にもなれない。それには途方もない努力が必要で、かつ成功する見込みも薄いという気がするんです。そのくらいなら、多少奇矯に思われようと今まで通りに生きていった方がいいんです。黒杜ではこの考えがすっかり浸透していて、医者も巡査も異論をはさむ余地はありません。僕たちは僕たちのやり方をただ続けるだけです。そのために誰が犠牲になろうが、自分が犠牲になろうが構わないんです。いいえ、そもそも犠牲という概念すらないのかもしれません。僕たちは独り取り残されるより、一心同体という幻に包まれて……そう、いっそ全員で死んでしまった方がいいんです。葉巻を吸おうがモーニングに身を包もうが、僕たちはやっぱり根本ではちっとも変わっていません。西洋の徹底した人間礼賛、個人崇拝、自我の覚醒は荷が重すぎるんです。もちろん、僕だってこうして都会へ出て、故郷に錦を飾りたいと思っている。それは否定しません。ですが、その末にはやはり家族と一緒にいたいんです。親が子を愛し、子が親を愛し、兄弟同士が慈しみ合う。これは一見美しい人間関係に思えますが、僕たちの村ではその度合いが強過ぎて、かえって皆冷酷で、互いに憎しみ合っているようにさえ見えるんです。裏を返せば、それだけ互いに求めることが多過ぎるんですよ。そういう邪な欲望が、黒杜の人間には根深く巣食ってるんです」
「狂ってる……」
「そう、ある意味僕たちは狂っています。自分と血を分ける者から片時も離れず、永遠に貪り合いたいと思ってるんですから」
「それじゃ、まるで」
「鬼のよう?」紫苑は長い指をのばして私の手をつかんだ。「そう、睡蓮はある意味……なるべくして鬼と化したんです」
「彼女は鬼だと?」
 紫苑は指先に力をこめてうなずいた。
「僕たちは鬼の子孫です。この東京市、いや、この国に住む誰もが鬼で、生き残るための残忍な技を子孫に伝えてるんです。貴方にその自覚はありませんか?」
「いいえ」私は彼の手を振り払った。「その力は懐かしい、不思議な奥底から湧き出てくるものです」
「へえ」紫苑は自分の手をさすりながら笑った。「ですが、僕には貴方が怯えているように見えます」
「こんなふうにされたら誰だって怯えます」
「貴方が怯えてるのは僕にじゃない。貴方自身にでしょう? 僕の話にうなずいてしまう……本当は知っていた、どこかでそう思っている自分に」
 私は無言で紫苑をにらんだ。すると、彼はつるばみ色の珈琲に再び視線を落とした。
「貴方の中に僕と同じ血が流れていることは否めません。いずれその血が貴方を呼ぶでしょう。それで……」
「それで?」
 紫苑はかすかに震える手で金ボタンのついたお腹の辺りに触れると、静かな低い声で言った。
「もう永遠に離れることはない」
 私は立ち上がると、財布からお札を取り出してテーブルに放った。
「失礼します」
 しかし、紫苑は動揺するどころかむしろ笑みを深めて言った。
「貴方はもっと注意深くなるべきだ……そばにいる人間が最も見えにくいのだから」
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