第10話

文字数 2,326文字

 私と碧海が席に着くのと、神楽の太夫たちが楽器を手にして座るのはほぼ同時だった。上手の席からは舞台を斜に見ることになるが、見づらいと思ったのも道理で、ここは見るための席ではなく見られるための席らしい。いつのまに追い越されたのか、私の隣には父や母や兄の姿がある。きっと、猿に構っていたせいだろう。私は人間と同じく横に二つ並んだ金色の瞳を思い出した。
 神楽殿の奥には桔梗色の幕が垂れ、その下手に太夫たちが並んで座っている。楽器を担当する太夫は大太鼓、それより一回り小さな締め太鼓、横笛、鉦と都合四人で、彼らはここが鉱山として栄える前から太夫職を受け継いできた血筋の者たちだという。
 ふと、桔梗色の幕が揺れて白い指がのぞいた。
 金冠をかぶり、千早に朱色の袴をまとった巫女が舞台に現れた。
 冠にぶら下がった鳥や花の飾りが揺れると、風鈴が鳴るようなかすかな音が響き渡る。
 私は息を止めて舞台を凝視した。暮れかかった境内には松明が焚かれ、その炎が巫女の右頬を薄赤く照らしている。彼女の瞳は琥珀色に透け、紅花を塗り重ねた唇は玉虫色に輝いている。鉱物を思わせる翠色……血をすすりすぎた挙句、そんなふうに染まってしまったような色だ。
「百合」
 私は思わずそうつぶやいた。祖父の弟惣二郎が偶然浅草で出会い、つかのまの逢瀬の後に別れたという鬼の名だ。黒杜の巫女は舞台の中央に正座し、聴衆にうやうやしく礼をしている。顔を上げた瞬間、長いまつ毛に縁取られた淡い色の瞳と私の視線がぶつかった。
 これはただの錯覚かもしれない。私の席は舞台の正面ではないし、「贔屓の歌舞伎役者と目が合った」というのはよく耳にする勘違いだから。それでも、彼女の唇にうっすらと笑みが浮かんだことは事実だ。
 大太鼓の音が胃の腑を震わせ、それに続いて締め太鼓、笛、鉦の音が響きだす。神楽の要となる大太鼓はおそらく古参の太夫の担当だろう。彼は左右で撥の持ち方の異なる神楽特有のたたき方で、喉仏を上下に動かしながらうなるように歌いだした。それと同時に巫女が立ち上がった。金冠の飾りが前後に揺れると、千早に落ちた影も閃く。それから、彼女は摺り足でゆっくりと回った。右手に捧げ持った螺旋状の鈴を鳴らしながら、腕で海の波のような模様を描いてゆく。初めは体の右側、次いで左側、最後に正面。そして、さっきとは逆方向に回りながら鈴をシャンシャンと鳴らす……遥か昔からくり返されてきたであろう所作。金冠の鳥は海上を飛び交い、風で膨らんだ袖は波間に弾ける白い泡のように棚引く。中途半端に開かれた唇はかすかな吐息とも、笑みともつかぬものをこぼしている。
 次の瞬間、神楽の速度が上がった。大太鼓が激しく打ち鳴らされ、笛は荒れ狂い、鉦は砕けよとばかりにぶつかり合う。巫女は腕を激しく前後に振り、神楽殿を大股で巡りながら狂ったように鈴を振り鳴らす。観衆の頬や耳が赤く染まっているのは寒さのせいでも、甘酒のせいでもなく、この急かすような音色に心を揺すぶられるからだ。私は汗ばんだてのひらで自分の二の腕をこすった。
 最後に大太鼓が一つ打ち鳴らされ、巫女は神楽殿の中央で正座した。
 彼女の額には汗の玉一つ浮かばず、その唇は変わらぬ浅い笑みをたたえている。
 それから、彼女は立ち上がり、再び桔梗色の幕の奥に姿を消した。しかし、朱色の袴が隠れる前に、ちょっと立ち止まって上座を振り返った。
 今度は勘違いではない。彼女は私を見つめている。
 もちろん、巫女が鉱山を再興させた一族に興味を持ったとしても不思議はない。実際、私は幼いころからずっと人々の好奇の目にさらされてきた。
 ああ、あの方……そう、白鷺の。
 細められる目、目、目。薄笑いを浮かべた唇。それを覆う堂上華族の白い手。闇に躍る新聞の印字。「昨今は金で買う爵位とて」云々。
 しかし、巫女の瞳は私を単簡に、それでいて執拗に見つめていた。まるで珍奇な生物を見つけた動物学者のように。あるいは……彼女は本当にコウモリでも見ていただけかもしれない。
 私は振り返ってやえにきいた。
「あれは本当に黒杜の巫女?」
 すると、やえは瞳孔の開いた瞳で私をぼうっと見返した。
「そうでございます」やえはちょっと声を落として答えた。「もちろん、ここは黒杜ではありませんから神がかりはございませんが」
「なぜ?」
「神がかりというのは危険なものでございますから」
 父や母に気兼ねしてか、やえはどこがどう危険なのかをちっとも説明してくれない。じれた私はやえの手を握った。
「ところで、あの巫女は女性なの?」
「それはもちろんそうでございましょう。あれほどお美しい殿方というのは……」
「でも」
 すると、父が振り向いて言った。
「茉莉花はあの巫女が随分気に入ったと見える。夕食にでも呼んだらどうだい? お前もこっちじゃ友達がいなくて寂しかろう」
「とんでもございません」やえは珍しく父に意見した。「旦那様、そのようなことをなさってはいけません」
「なぜかな?」
「私も嫌です」と横から母が口をはさんだ。「よく存じ上げない方々と食事をご一緒するのは怖いわ」
「太夫は神楽の間は精進いたしますから」とやえが取りなすように言った。「肉や魚はもちろん、卵も口にしないんでございます。ええ、ですから、ご一緒に食事などとてもできない相談でございます」
 それでその話は終わりになった。巫女舞の後は猿田彦舞、その後にはもう少し物語性のある能舞が続くらしい。しかし、私の頭は陶然として、どうかすると怪しい、気だるい世界へと導かれてゆくのだった。
 まるで古い樹液が化石になったような瞳……惣二郎の心を捉えた百合の瞳が私の心臓を支配し、それを好き勝手に脈打たせていた。
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