第14話

文字数 2,096文字

 いつのまにか、私は椿の森に迷いこんでしまったらしい。樹木の背が高くないからそれほどの圧迫感はないが、まるで海辺にあるようなうねうねと腰の曲がった古樹、それも赤いのと白いのとがほとんど交互に咲いている。咲いている、といっても可憐な感じではなくてぼったりとした紅色の、朝早くに見る女給の唇のように色褪せて肉感的な花びら。それらが重なり合い、先端を茶色く染めてうなだれている。
 椿の花がそんなふうに見えるのは、私が病んでいるからかもしれない。肺炎の熱は大方引いたが、いまだに体は本調子とはほど遠く、母と狭霧の思惑通り片田舎に送りこまれてしまった。とはいえここは生みの母の故郷で、黒杜という名の通り四方を山に囲まれている。その斜面を利用して果樹や桑などが植えられ、随分長閑な光が差す中にメジロが飛び回っている。メジロにしたら繁忙期なのかもしれない。シジュウカラとエナガの群れはやって来たかと思えば飛び立ち、どこかへ行ってしまったと思えばまた頭上に集まってくる。
 キョッ、キョキョ、キョッキョッキョと茂みでシロハラが鳴いている。それでも、姿は見当たらない。私は薮椿の木陰に入ったが、白い花がこちらを見下ろすように首をもたげるばかりだ。やがて、少し離れたところでまたキョッ、キョッと聞こえた。私は木陰から出て声の主を探した。すべすべしたシラカシの木肌に触れながら藪に分け入ると、深緑色の池があり、対岸には苔むした石灯籠が立っていた。
 古い鏡のような水面に白い梅の花びらが散っている。それに赤い椿の頭も。いや、こちらは浮かんでいるのではなく、岸辺にあるのが映りこんでいるだけらしい。私が足を踏み出した瞬間、背後で鋭い声が響いた。
「いけません」
 振り返ると、そこに黒杜の巫女がいた。
 巫女は私の肩を押さえ、薄茶色の瞳を細めている。私はなぜか、遠い昔にもこんなふうに彼女を振り返ったことがあるような気がした。
「危険です」彼女はそっと手を離してくり返した。「綺麗な池に見えても、本当は底なし沼なんです。長年降り積もった枯葉が底の方にたまって、いったん落ちると男でもなかなか自力では上がれません。沼の縁が斜面になっていて、力を入れれば入れるほど草履がめりこむんです」
「底なし沼?」
「ここで溺れるのは大抵よそから来た人です。地元の者は皆知ってますから」
 その声は不思議な調子を持っていた。普通の若い女のように高くもないが、もちろん番頭のように野太い声でもない。やや低い調子でかすかに震える琴の音じみたその声は、ほんの数語で私の鼓膜を麻痺させてしまった。
 私は何と答えたかよく分からない。そう、とか、まあ、とかいうありきたりな返事だったと思う。しかし、彼女は綺麗な形の唇をほころばせ、私のコートの裾についた泥を払ってくれた。
「白鷺のお嬢さんでしょう? 本家の方へご静養にいらしているとうかがっております」
 私はうつむいたまま尋ねた。
「貴方は黒杜の?」
「ええ」彼女は左方を指したが、そこには交差した木々の枝があるばかりだった。「分家の方に」
 まるで分家の者ではなく、分家に厄介になっている者、とでも言っているようだ。私の疑惑に気づいたのか、彼女は陽に透けた琥珀色の瞳を細めて微笑んだ。それだけで私の思考能力を奪ってしまおうとするように。
「山神祭りで神楽を拝見しました」と私は言った。「貴方はあの時の巫女でしょう?」
「さあ」と彼女はまた笑った。「神楽を舞う巫女は私であって私ではありません。ですから、貴方が仰るのが本当に私かどうか」
「神がかりをされるとか」
「他愛のない話です。昔は農家のおかみさんでもしたことですよ。それが禁止されたがゆえにこう騒がれて……」
「今度の黒杜神楽でも舞われるんですか?」
「貴方がお望みでしたら」
 黒杜の巫女は池の端を離れ、シラカシを一瞬だけ振り返り、薮をすうっと抜けてゆく。林道にはスミレがぽつぽつと群れ咲き、彼女はそれを追いかけるように石段をゆっくりと上りだした。私はその背中に向かってきいた。
「私の意志が関係するんですか?」
「ええ、もちろん」
「ただの荷厄介な居候ですよ」
「それにしては瞳が……」
「えっ?」
「瞳に生気がありますね。まるで何かを探ろう、見つけようとしているような」
 石段のてっぺんまで上ると、私は彼女の視線に促される形で椿の森を見下ろした。しかし、そこには想像したのとは全く異なる景色が広がっていた。白い梅、赤い梅、桃色の梅が煙るように花をほころばせ、上向きに生えた棘々した枝をからませ、溶け合い、眼下は一面にぼうっと霞んでいる。椿はその背景に引いて、遠くの方にくすんだ緑を浮かべるばかりだった。
 とても自然のものとは思われない、濃厚な甘い香りが漂ってくる。私は息をついて赤く染まった指先をこすり合わせた。
「まるで桃源郷ね」
「それなら、貴方もいずれお帰りにならないと」
「でも、ここは私の母の故郷です」
「私には故郷などありません」
 黒杜の巫女はそう言って、私の髪についた花びらをつまんだ。梅の花は風にひらひら踊り、地面に落ちたとたんにほかのものと見分けがつかなくなってしまった。
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