第6話

文字数 2,506文字

 山吹色の明かりに照らされたマッチ箱じみた電車。赤い屋根の駅舎を抜け出すと、正面の山が赤茶けた地肌をさらしているのが見えた。駅前には出迎えの人々が集まり、小学校の生徒たちが唱歌を披露してくれるという。山間にある小さな村を切り拓き、その小学校を建てたのは曽祖父の松五郎だ。子どもたちは桃色の造花を握り、体を左右に揺らしながら声を張り上げて歌っている。そして、ひらひらしたその造花はすっかり葉を落とした木々や、木製の電信柱にからみついて人工の春を彩っていた。
 送迎車に乗りこむと、自動車が珍しいのか子どもたちが窓をのぞきこんできた。この寒い中に木綿の着物一枚きりで、中には鼻水を垂らしたままの男の子もいる。その頬は笑みでこんもり盛り上がっているが、彼らの父親が明日の朝、赤い毛布に包まれて坑道から運び出されないともかぎらない。
 私が物思いにふけっていると気づいたのか、乳母のやえが皺だらけの乾いた手で私の手を軽くたたいた。彼女は本来私の成人とともにお役御免になるはずだったが、玄人はだしの料理の腕、それに異様なまでの辛抱強さを買われていまだうちに仕えてくれている。
「まあ、何ですか。梅や桜にはまだ早いと思いましたのに、本当に可愛らしいお花で」
 私も笑ってやえの温かな手を軽く握った。
「山の春は早いというから」
「お嬢様がいらしって本当にようございました。何せ、明日の祭りであの黒杜の巫女様が舞われますし」
 先行する車には父と母、それに兄も乗りこんでいる。その時、なぜか後部座席の兄が一瞬こちらを振り返ったような気がした。
「黒杜?」
「ええ、ええ」やえは何度もうなずいた。「お懐かしいお名前でございましょう?」
 懐かしいも何も、黒杜というのは私を産んでまもなく亡くなった母の名字だ。しかし、母の名と山神祭がどう結びつくのか分からない。私が黙っていると、やえはどこを見ているのか分からない、陶然とした瞳を見開いて言った。
「こちらの神社は松五郎様が勧請されましたから、比較的新しゅうございましょう。元々この地方にあった小さな社と習合したんです。ですから、神楽は地元の太夫に舞わせるんですが、ええ、神事自体は新しく来られた神主様の担当で、その神楽というのが……」
 やえの話は昔と今がこんがらがって分かりにくい。ふと、助手席にいる碧海が振り返って言った。
「黒杜の巫女といえば、神がかりするので有名らしいな」
「ええ」とやえはまたうなずいた。「もちろん、明治になってお役人がそういったものを禁じたことはこのやえも存じております。淫祠、邪教のたぐいは……それでも、やはり本物は残りますから。いくらお偉方でも人の気持ちまで変えることはできません。それに黒杜は山に囲まれた土地ですから、お役人様の目もそこまでは行き届かなかったんでしょう」
「つまり」じれったくなった私はやえの手をつかんだ。「巫女神楽はその黒杜の者がやるというの?」
「そうなんでございます。これにはこのやえめも一肌脱いだんでございますよ。元来、巫女舞というのはその村で太夫筋にあたる者の家にいる、特に美しい若い生娘が舞うものなんです。それでも、そんな娘がそううまく見つかるはずもございません。特に巫女っけのあるなしは本人が選べるものでもございませんから。ですから、普通はその家の主婦に舞わせるんでございますが、何ですか、黒杜の巫女の託宣がよぅく当たるというので、まあ、そんな娘がいるなら来てもらったらいいじゃないかと、ええ、ご当主様も大変乗り気で、一つ山を越えればすむ話ですから、このやえめが間に立って話を取り結んだんでございます」
「お前が最近やけに元気だったのはそのせいね」私はため息をついた。「それでその巫女は……私の母の親戚にあたる人?」
「そうでございます。桜様のお父上の弟君が分家なさって、巫女様はその方の娘君の一人娘ですから」
「まるで謎々ね。とりあえず、私の親戚ということは分かったけれど」
「それがその……はっきり申し上げていいのかどうか」やえはすまなそうに言った。「あちらの血筋は大変混み入ってございますから。何ですか、産まれた時分に髪や歯が生えていると鬼の子だと言って里子に出したり、兄妹でできた子を引き取らせたりなんてこともございましたねぇ。容易に外と交わることのできない地勢ですし、伝染病を恐れるせいもあるんでしょう。他人を厭うあまり、どうしても血が濃くなってしまうんですよ。そのせいですか、黒杜は目をこすってみたくなるような、色の白い、本当にお美しい方ばかりで。このやえめも少女の時分にどれだけ憧れたか分かりません。本家の方々がお通りになるときは、私の父なんぞ鍬を置いて道端に土下座したものです……それが今やこうして茉莉花様にお仕えしてるんですから、甥の息子も技師にまでならせていただいて……ええ、本当に人生というのは分からないものですねぇ」
 放っておくとやえの思い出話は一、二時間も続きそうだった。普段ならいい加減に聞き流しておくところだが、今の私はとてもそんな気にはなれない。彼女の玉手箱の中には思いがけず私の母の故郷が入っていたのだから。
「どうして、今まであまり母のことを話してくれなかったの?」
「それは」とやえは珍しく口ごもった。「何ですか、新しいお母様がいらっしゃいますから。茉莉花様があんまり先のお母様を懐かしく思ってはと……」
「口止めされていた?」
「それは……何ですか……いえ、そんなことは決して」
 私は無言で窓の外の景色を眺めた。山の斜面と並行して、砕いた岩石を運ぶための鉄索が張り巡らされている。私たちの車はその鉄索と別れて川沿いの道を北西へ進んでゆく。橋の下には思いがけないほど綺麗なエメラルド・グリーンの水が流れている。きっと、銅成分のせいだろう。鉱山で採れる孔雀石もそんなふうな色をしているから。
「あれだ」
 碧海がそう言って窓の外を指した。くすんだ色の空の下に、こんもりとした杉木立にはさまれた赤煉瓦の洋館が建っている。その煉瓦は昔見た精錬所と同じ色をしていた。
「古い血の色」
 そうつぶやくと、碧海は目を細めて、ああ、とうなずいた。
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