第21話
文字数 2,234文字
いよいよ猿田彦の登場となり、皆は舞処を囲む座布団の上で居住まいを正した。分家の小父が案内役で、彼は朗々とした声で猿田彦の功徳、つまり天孫降臨の際に道案内をしたという話を長々と語って聞かせる。隣ではやえが重箱の中から鮭寿司のお握りを出してもぐもぐしている。
桔梗色の幕が風にあおられたようにはためき、真っ赤な天狗面に赤熊、金襴の衣装をまとった叔父が登場した。それと同時に菫が笛の音を響かせ、祖父の大太鼓と叔母の鉦も鳴りだした。猿田彦は右手に榊、左手には刀を携え、四方をにらむようにしながらゆったりとした足取りで舞いだした。
「懐かしゅうございますねえ」口の横に米粒をつけたやえが言った。「昔は桜様が笛の担当でございましたっけ。菫様もお上手ですが、あの笛の音ときたら、ただの笛というより、こう何か、黒杜の地に住む精霊でも歌っているようで」
「何だかおどろおどろしいのね」
「滅相もございません。それどころか……」
突然、太鼓の調子が変わり、同時に猿田彦の足取りも軽くなった。両手と両脚を同時に広げて見栄を切るたびに、ようっ、それっ、と客席から声がかかる。猿田彦もその喚声にのって段々と調子を上げてゆく。榊を振り、大きな鼻を突き出して天井を仰ぎ、飛び上がってまた手脚を広げる。笛が軽快な波を描き、鉦はシャカシャカ空気を震わせ、太鼓がボンボン胃の底を揺らす。最後に叔父が榊を捧げ持って一礼すると、拍手が盛んに鳴り響いた。
「これで七座の神事は終わり?」と私は指折り数えた。
「いえいえ」やえが首を横に振ると、口元のご飯粒はどこかへ飛んでしまった。「まだ猿田彦の槍舞がございます」
「猿田彦なら今舞ったでしょう?」
「これからが本番でございます」
やえの言葉通り、猿田彦は楽屋へ消えたというのにまた笛の音が響きだした。さっきよりも滑らかな……ガラス戸ににじむ藍色の闇のような音色。太鼓の音が鳴りだすと、生麩がするりと箸から滑り落ちた。
今度の猿田彦は紫苑が舞うらしい。天狗面はつけずに素顔をさらし、髪も鉢巻でぴったり押さえている。衣装もさきほどよりは軽装で、上衣は襷がけにし、金襴の大口袴をはき、黒漆で塗られた長槍を手にしている。
初めに猿田彦はひざまずいて長槍を四方へ捧げ、その後でおもむろに立ち上がった。笛の音に合わせて槍を上空へ向かって突く仕草をし、飛び上がり、そのまましゃがんで今度は槍を下方へ突き出す。次は上方へ突き出し、また飛び上がって今度は下方へ。これは確かに叔父には舞えない。猿田彦が槍を頭上でぐるぐる回すと、槍の柄についた赤いふさが輪になって踊り、刃先が天蓋に当たって白いものがひらひらと降りだした。紫苑はその雪の中で舞い続けている。この黒い鏡のような平静な瞳と、荒々しい挙動とがどうして一人の中に同居しているのか分からない。まるで読経しながらダンスしているようなものだ。しゃがんだ瞬間に周囲を薙ぎ払う俊敏かつ獰猛な所作。それでいて、決して瞳だけは揺れない。彼が今何か喋ったとしたら、おそらく常日頃の、あの深い穏やかな声を出すだろう。
あるいは、紫苑は静かに狂っているのかもしれない。時がよどんで滞り、ただひたすら腐葉土を堆積させてゆくあの古い沼のように。黒杜の地そのものが彼のような人間を醸成しているのだとしたら……。
私の視線は柔らかな唇を笛に押し当てている菫に自然と落ちた。彼女の瞳も、やはり濡れた墨のように艶々と輝き、それでいながら何も見ていない。私は自分の二の腕が粟立つのを感じた。
笛の音が高まり、猿田彦はしゃがんだままゆっくりと腰に手をのばし、そろりと刀を抜いた。模擬刀と分かってはいても、澄んだ光が瞳を傷つけるようだ。猿田彦は見えない巨大な敵と戦うように頭上で刀を振り回す。すると、天蓋からまたさらさらと雪片が舞い落ちてくる。それから、彼は四方を見回し、深々と礼をし、静かな足取りで楽屋へと戻っていった。幕の揺らめきが収まったころ、突然鼓膜が痛むような拍手が沸き起こった。
不思議なことに、猿田彦が落とした天蓋の欠片を拾い集めている人がいる。私がぼうっと眺めていると、やえが拾った雪片を私にくれた。
「縁起物なんでございますよ」
私はそれを無造作に帯の間にはさんだが、頭が太鼓の音に揺さぶられていたのか、その由来をきくことは忘れてしまっていた。
やえは頬を上気させておすましをすすっている。四切れでも、三切れでもなく、二切れの蒲鉾がその水底に沈んでいる。
「紫苑様も精悍になられて」やえがため息混じりに言った。「義経の八艘飛びでもさせてみたいようですねぇ」
「やえ」私は誰もいなくなった舞処を見て言った。「黒杜の人は皆ああなの?」
「ああ、と申しますと?」
「私も似ている?」
「ええ」とやえは笑った。「茉莉花様はお母様に生き写しで、本当に黒杜の方々のお顔をしてらっしゃいます」
私は無言で振り返った。すると、やえのつぶらな瞳が見つめ返してきた。
「茉莉花様には旦那様に似てらっしゃるところもおありです。決断力があって、想像力豊かな……黒杜と白鷺の方々には相反する性質がございますね。ですが、正と負というのはいつでもある種の力を生み出すものでございます」
「それが私の原動力?」
「ええ。そうでございましょう」
ふと、幕の内側からひらりと白い手がのぞいた。薄茶色の瞳がこちらをうかがっている。次は睡蓮の荒神舞……しかし、私はその舞が一体何を意味するのか理解してはいなかった。
桔梗色の幕が風にあおられたようにはためき、真っ赤な天狗面に赤熊、金襴の衣装をまとった叔父が登場した。それと同時に菫が笛の音を響かせ、祖父の大太鼓と叔母の鉦も鳴りだした。猿田彦は右手に榊、左手には刀を携え、四方をにらむようにしながらゆったりとした足取りで舞いだした。
「懐かしゅうございますねえ」口の横に米粒をつけたやえが言った。「昔は桜様が笛の担当でございましたっけ。菫様もお上手ですが、あの笛の音ときたら、ただの笛というより、こう何か、黒杜の地に住む精霊でも歌っているようで」
「何だかおどろおどろしいのね」
「滅相もございません。それどころか……」
突然、太鼓の調子が変わり、同時に猿田彦の足取りも軽くなった。両手と両脚を同時に広げて見栄を切るたびに、ようっ、それっ、と客席から声がかかる。猿田彦もその喚声にのって段々と調子を上げてゆく。榊を振り、大きな鼻を突き出して天井を仰ぎ、飛び上がってまた手脚を広げる。笛が軽快な波を描き、鉦はシャカシャカ空気を震わせ、太鼓がボンボン胃の底を揺らす。最後に叔父が榊を捧げ持って一礼すると、拍手が盛んに鳴り響いた。
「これで七座の神事は終わり?」と私は指折り数えた。
「いえいえ」やえが首を横に振ると、口元のご飯粒はどこかへ飛んでしまった。「まだ猿田彦の槍舞がございます」
「猿田彦なら今舞ったでしょう?」
「これからが本番でございます」
やえの言葉通り、猿田彦は楽屋へ消えたというのにまた笛の音が響きだした。さっきよりも滑らかな……ガラス戸ににじむ藍色の闇のような音色。太鼓の音が鳴りだすと、生麩がするりと箸から滑り落ちた。
今度の猿田彦は紫苑が舞うらしい。天狗面はつけずに素顔をさらし、髪も鉢巻でぴったり押さえている。衣装もさきほどよりは軽装で、上衣は襷がけにし、金襴の大口袴をはき、黒漆で塗られた長槍を手にしている。
初めに猿田彦はひざまずいて長槍を四方へ捧げ、その後でおもむろに立ち上がった。笛の音に合わせて槍を上空へ向かって突く仕草をし、飛び上がり、そのまましゃがんで今度は槍を下方へ突き出す。次は上方へ突き出し、また飛び上がって今度は下方へ。これは確かに叔父には舞えない。猿田彦が槍を頭上でぐるぐる回すと、槍の柄についた赤いふさが輪になって踊り、刃先が天蓋に当たって白いものがひらひらと降りだした。紫苑はその雪の中で舞い続けている。この黒い鏡のような平静な瞳と、荒々しい挙動とがどうして一人の中に同居しているのか分からない。まるで読経しながらダンスしているようなものだ。しゃがんだ瞬間に周囲を薙ぎ払う俊敏かつ獰猛な所作。それでいて、決して瞳だけは揺れない。彼が今何か喋ったとしたら、おそらく常日頃の、あの深い穏やかな声を出すだろう。
あるいは、紫苑は静かに狂っているのかもしれない。時がよどんで滞り、ただひたすら腐葉土を堆積させてゆくあの古い沼のように。黒杜の地そのものが彼のような人間を醸成しているのだとしたら……。
私の視線は柔らかな唇を笛に押し当てている菫に自然と落ちた。彼女の瞳も、やはり濡れた墨のように艶々と輝き、それでいながら何も見ていない。私は自分の二の腕が粟立つのを感じた。
笛の音が高まり、猿田彦はしゃがんだままゆっくりと腰に手をのばし、そろりと刀を抜いた。模擬刀と分かってはいても、澄んだ光が瞳を傷つけるようだ。猿田彦は見えない巨大な敵と戦うように頭上で刀を振り回す。すると、天蓋からまたさらさらと雪片が舞い落ちてくる。それから、彼は四方を見回し、深々と礼をし、静かな足取りで楽屋へと戻っていった。幕の揺らめきが収まったころ、突然鼓膜が痛むような拍手が沸き起こった。
不思議なことに、猿田彦が落とした天蓋の欠片を拾い集めている人がいる。私がぼうっと眺めていると、やえが拾った雪片を私にくれた。
「縁起物なんでございますよ」
私はそれを無造作に帯の間にはさんだが、頭が太鼓の音に揺さぶられていたのか、その由来をきくことは忘れてしまっていた。
やえは頬を上気させておすましをすすっている。四切れでも、三切れでもなく、二切れの蒲鉾がその水底に沈んでいる。
「紫苑様も精悍になられて」やえがため息混じりに言った。「義経の八艘飛びでもさせてみたいようですねぇ」
「やえ」私は誰もいなくなった舞処を見て言った。「黒杜の人は皆ああなの?」
「ああ、と申しますと?」
「私も似ている?」
「ええ」とやえは笑った。「茉莉花様はお母様に生き写しで、本当に黒杜の方々のお顔をしてらっしゃいます」
私は無言で振り返った。すると、やえのつぶらな瞳が見つめ返してきた。
「茉莉花様には旦那様に似てらっしゃるところもおありです。決断力があって、想像力豊かな……黒杜と白鷺の方々には相反する性質がございますね。ですが、正と負というのはいつでもある種の力を生み出すものでございます」
「それが私の原動力?」
「ええ。そうでございましょう」
ふと、幕の内側からひらりと白い手がのぞいた。薄茶色の瞳がこちらをうかがっている。次は睡蓮の荒神舞……しかし、私はその舞が一体何を意味するのか理解してはいなかった。