第43話

文字数 2,616文字

 私は碧海を見つめ、碧海は私を見つめていた。二人がそうしてにらみ合っていたのは、三十秒か、三分か……あるいは、もっと長い間だったかもしれない。
 ふと、切り火を打つように碧海が言った。
「俺は菫の望みを叶えてやっただけだ。あいつは黒杜を守るために自分が犠牲になることを望んでいた。その願望がお嬢様の夢物語の域を越えて、抜き差しならないところまで来ていたんだ。自己犠牲とは、ある意味究極のナルシズムでもある。犠牲となり、八つ裂きにされ、皆と一心同体になる。これ以上の喜びがあるだろうか……彼女をそこまで追い詰めるものが黒杜の地にはあるんだ」
「それなら、この手紙は?」
「完全な作り話というわけでもない」と碧海は息をついた。「実際にお前の母親は亡くなる前にこんな話を菫に聞かせたんだ。意識が朦朧として、儀式の前に飲んだ酒の勢いも手伝ってつい口を滑らせたんだろう。菫はそれをお前に黙ったまま逝くのが心苦しいと言った。それでこんな狂言を思いついたんだ」
「でも、菫と私のためだけじゃないでしょ? 義母にわざわざ告げ口したくらいだから」
 ああ、と笑って碧海は再びソファに腰を下ろした。
「あの男……狭霧といったか。気障な嫌味ったらしい男だったが、さすがに牢屋にぶちこまれてるのを見たら可哀想だったな。それにお前の義母も馬脚を露わした以上、もう俺の計画を邪魔することもないだろう」
「計画?」
「言ったろう? 黒杜に帰るって」
 碧海は忙しなく腰を浮かせると、書棚から茶色い封筒を抜き出した。
「この中に五枚の写真がある。一枚は撮り損なったが、光源が松明な割には悪くない出来栄えだ。円カメでモデルを撮影してるのが役立ったかな」
 私は差し出された封筒を受け取り、カドミウムレッドが飛び散ったような碧海の瞳を見つめた。
「何の写真?」
「洲楽とちょっとした冒険をした。活動写真なんて目じゃない代物さ。ツキノワグマのように解体される少女。白目をぎらつかせて鉈をふるう男。その肉を受け取る女や青年……これだけの証拠があれば警察も動くだろう」
「まさか」
「あいつら全員監獄行きだ。そのうえ、刺激的な文字が新聞や雑誌に踊るだろう……何なら高価なカメラを貸してくれた礼に芝浦に独占記事を書かせてもいい。金持ちが落ちぶれるのが好きな奴は大勢いるからな。そうなりゃ本家は完全に潰れる」
「碧海」
「元々俺のものだ。取り返して何が悪い?」
「碧海」
 そう私はくり返すと、巾着から金時計を出して碧海に渡した。
 碧海はまるで珍しい卵でも受け取ったようにそれを眺め、ふっと口辺に笑みをにじませた。
「これがどうした?」
「洲楽が私に返してくれたの。でも、これは私のものじゃない」
「何を」碧海は金時計の蓋を開いて確認した。「なるほど……悪いが、あいつらを騙すにはこの方法しかなかったんだ。ちゃんと修理してから返すよ」
「そうじゃない」と私は言い募った。「蓋の裏に彫られた文字を見て。そこにM・Sとあるでしょう?」
「白鷺茉莉花のイニシャルだろう?」
 私は首を横に振った。
「それは私がお祖父さんから譲り受けたもので、元の持ち主は曽祖父の白鷺松五郎なの」
「それが?」
「父もこれと全く同じものを同じ時計店で作らせた。白鷺正忠のイニシャルもM・S。だけど、字体が少し違って、曽祖父の方はクロード・ガラモンのオールド・ローマン体。父の方はジャンバティスタ・ボドニのモダン・スタイルのローマン体。ちなみに兄はウィリアム・モリスのゴシック体」
 碧海は浅い笑みを浮かべたまま金時計をぐっと握りしめた。
「それがどうしたというんだ」
「二つを見比べるうちに分からなくなって、私の時計の方が新しいはずだと思ったんでしょ? それで傷の少ない綺麗な方を選び、見つかりやすいように土砂の中に軽く埋めておいた。でも、本当は私の金時計の方が古かったの」
 私は息をつくと、碧海の指をそっと開いて温かな金時計を受け取った。
「この金時計は婚約の際に父が母に渡したはず。だから、これを持っているということは母の臨終に立ち会った、ごく近しい人ということになるけれど……」
「菫の形見の中にあったんだ」
「母が私じゃなく菫に父の金時計を遺すとは思えない」
 碧海の頬が微かに痙攣している。しかし、その痙攣は波紋のように跡形もなく消え失せ、後には暗い水面じみた二つの瞳だけが残されていた。
 碧海は机の引き出しを開き、もう一つの金時計を取り出した。
「画家失格だな」碧海は私の手に金時計を落とした。「ものを見る目が鍛えられてないせいだ。こんな馬鹿な過ちを犯すなんて」
「誰でも過ちは犯す。そうでしょ?」私は二つの金時計を巾着にしまった。「ところで、この写真をどうするつもり?」
「もちろん」碧海は汗の浮いた額をぬぐった。「お前の好きにしていい」
「写真の乾板は?」
 すると、碧海はちょっと口籠もったすえに吐き出すように言った。「そこに」
 私は書棚から分厚い封筒を引き抜き、乾板を入れる鉛色のカートリッジが一から六まで全て揃っているのを確認した。
「それじゃ、これは預かっておくね」
 碧海はこけた頬をなでると、そのまま画布の前の丸椅子に座った。
「俺はお前の母親を殺してない」碧海は私の背中に投げつけるように言った。「むしろ、桜の共犯者だった」
 私は二つの封筒を抱えたまま振り返った。
「ただ見ていた。そうでしょ?」
「俺はあの人が好きだった。俺の境遇を知っていて、高等学校へ入れたのだって彼女の援助のおかげだった。好きになってもらおうなんて思ったことはない。彼女の目には俺なんか映ってないって知ってたし、だからこそ憧れたんだ。聡明で優美で、熱に浮かされたように情熱的で……それでいて、大声でわめきたくなるほど冷酷な人だった……俺は恩返しがしたかったんだ。ただの小僧でいるより、彼女の小姓か下僕になりたかった。この金時計は信頼の証にあの人が渡してくれたんだ。いつかその時が来たら……」
 指先が勝手に震える。まるで聞こえもしない音楽を感じ取った体が、自分勝手に調子を取りだしたように。
「お前に渡す。そう彼女に約束した……だから、そう、俺は殺してない。断じて殺してなんかない。俺じゃない。俺があの細い首をどうして……」
 私はドアを開くと、左へ折れ曲がった急峻な階段を下りていった。
 上階は何事もなかったように静まり返っている。
 玄関のドアを開けても、その静寂は変わらずそこに溜まっていた。
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