第7話

文字数 2,851文字

 夕食の後、私が自室を離れてどこへ向かったかは説明するまでもないだろう。何も薄闇に紛れる必要はないのだが、やはり探偵をするからには雰囲気というものを大切にしたい。私が求めるのはアーサー・コナン・ドイルの世界だ。そこで例の男装をすることにして、廊下は肌寒いのでそれらしくチェスターコートをまとった。本当ならカンテラでも提げたいところだが、祖父の改革のおかげで山奥とはいえ洋館にはきちんと電気が通っている。とりあえず洋装だけで我慢することにして、私は静まり返った廊下を革靴の音を立てないように注意しながら歩いていった。
 踊り場には巨大な置き時計があり、月の色をした文字盤の表面に黒いアイアンの針が浮かんでいた。十時半。私は意味もなく時間を記憶した。なぜなら、事件が起こった暁には必ずやこの時間というものが重要になってくるからだ。振り子の収められた扉のガラスには私自身の不穏な笑みが映っている。これではドイルではなく、エドガー・アラン・ポーの世界だ。私はそのうち自分で犯した罪を自分で推理して吹聴する狂人になってしまうかもしれない。急いで置き時計を離れようとした瞬間、ガラスにもう一つ、別な灰色の顔が映った。
「驚かさないでくれ」私は振り返って言った。「カンテラを持っていたら、落とした炎が絨毯に燃え移ってこの館が大炎上するところだった」
「一体、何の話だ?」碧海はため息をついた。「また妄想ごっこか」
「妄想じゃなく、麗しい夜の夢と呼んでくれ」
「その麗しい夢とやらを邪魔して悪いが、お前がそろそろ始めるころだと思ってね。ところで、問題の部屋がどこか知ってるのか?」
「いいや。大方、突き当たりの湿っぽい場所にあるんだろう」
 碧海は無言でため息をつくと、私の先頭に立って階段を下り始めた。
 磨りガラスの窓の向こうは漆黒の闇だ。そのうえ、厨房の前を通り過ぎると廊下は豆電球ばかりで薄暗くなった。
「君は貴婦人にふさわしい部屋と言ってなかったか? そっちは使用人の部屋だろう」
「ああ」と碧海はうなずいた。「しかし、こっちで合ってる」
 閉まったドアの向こうから笑い声が響いてくる。大方、こちらで雇った運転手や下男が酒を飲みながら賭け事でもしているのだろう。碧海はそのドアの前も通り過ぎ、内倉の扉の前でふと立ち止まった。
「君、正気かい?」
「もちろん」碧海は私に向って手を差し出した。「姫君、そのお手をお開きください」
「王子と呼んでくれたまえ」私は父の書斎から盗んできた鍵束を差し出した。「これが早速役に立つんだな」
 ガチャリと鈍い音を立てて、赤錆びた鋲のうがたれた、墨で描いたような木目の走る紫檀の扉が開いてゆく……その奥は碧海の言った通り、蔵ではなくこじんまりとした部屋に改装されているようだ。電気のスイッチをひねると、バラの花束を意匠化した桃色の壁紙や、ロココ風の猫足の鏡台、翡翠色の生地が貼られた寝椅子などが目に入った。
「これは隠し宮殿だね」
 私は部屋の中央でくるりと一回りした。暖炉の上に金の額縁に収まった絵がかけられている。バランスを崩した私はあやうく転びそうになってしまった。碧海は私の腕を抱えたが、視線は絵画の方に惹き寄せられていた。
 鹿鳴館時代風の青いドレスの女。彼女はまるで夜の海のようにたっぷりした黒い瞳をしている。
「いつの絵だろう?」
 碧海は酒に酔ったようにふうっと息をついた。
「分からん」
「君は画家の端くれじゃないのか」
「だから、余計に分からんのだ。なぜ、この絵にわざわざ加筆を施したのか」
「加筆?」
「あくまで予想にすぎないが……見たまえ。彼女の頬は珊瑚色で彩られているだろう? しかし、ドレスは鮮やかなコバルトブルーだ。初めからそう描くなら、俺なら彼女の頬には桜色を浮かばせる」
「彼女の顔色とドレスの色があまり合ってないってこと?」
「肖像画は見たままを描くわけじゃない。もちろん依頼人には従うが、後々まで残るものだからね。まず絵画自体の調和を重んじ、かつ室内の雰囲気に合わせたものにするはずだ」
「この絵には謎があるということか」
 私は猫足のスツールを暖炉の前に置いた。
「何をする?」
「中を調べてみるんだよ」
 すると、碧海が私の代わりに絵画を外してくれた。額縁もガラスも綺麗に磨かれ、ほこり一つ落ちてこない。
「これはますます怪しいな。どう思う? ワトスン君」
「どう思うも何も、確かめてみるしかない」
 額縁を裏返し、爪を外し、キャンバスをそっと持ち上げる……しかし、古びた紙切れも手紙も、実は非常に高価な切手もこぼれ落ちてはくれなかった。
 碧海は恋い焦がれた「彼女」に再会できた喜びのためか、充血した瞳で絵をじっと見つめている。熱のこもった……それでいてどこか無機質な瞳。こんな視線を向けられるモデルはさぞかし疲れるに違いない。私は絨毯の上にあぐらをかいてため息をついた。
「彼女にきいてくれないか? 生まれたのは明治か、それとも天暦か」
「天暦?」
「何、こっちの話さ。祖父の御伽噺の時代だよ」
「髪にもかすかな修正の跡がある」私の言葉を無視して碧海は額縁の爪を戻した。「おそらく、彼女はもっと素朴な衣装をまとっていただろう」
「それをわざわざ大時代風にしたということ?」
「ああ」碧海はスツールの上で軽くのけ反りながら言った。「それから、隠し部屋に閉じこめたんだ」
「一体、誰が?」
「それは俺にも分からない」
 その時、私は絵の女が翡翠の腕輪をしていることに気づいた。祖父の弟の話に腕輪は出てこなかったが、これが「彼女」なら腕には重要な意味がある。
 私の視線に気づいたのか、碧海は少し離れたところから絵画を見つめ直した。その瞬間、私は思わず声をあげた。
「分かった! この右腕だよ」
「えっ?」
「彼女の指先は変にそろってるだろう? まるで何かを指し示すように」
 私は絵の女の指す辺りの床にはいつくばった。それから、猫足の椅子をどけて絨毯をめくり、寄木張りのオーク材の床をむき出しにした。しかし、床板は爪をかけてもびくりともしない。部屋中を探してみたが、鏡台の中は空っぽで床板をはがすのに使えそうなものはなかった。
「いったん部屋に戻って何か探してくるよ」
 私がそう言ったとたん、碧海が唇の前で人差し指を立てた。
 一秒、二秒、三秒……足音が近づいてくる。碧海は電気のスイッチをそっとひねった。私は真っ暗闇の中で絨毯を足で元に戻した。
 南京錠を見れば闖入者に気づくだろう。こんな真夜中に内倉を訪れるのは父か、兄か、それとも……。
 数秒後、部屋のドアが薄く開いた……と同時に、碧海は私の腕を強く引いた。扉の閉まる音。男のうめき声。それから、碧海は内倉の鍵をかけて怪しい人物を閉じこめてしまった。
 私は紫檀の扉に耳を当て、中の様子をうかがった。しかし、分厚い扉の向こうからは何も聞こえてこない。
 何分ほどたっただろう。私と碧海はうなずき合い、静かに扉を開いた。
 しかし、その奥には誰の姿もなく、絵画の女が微笑んでいるばかりだった。
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