第39話

文字数 2,698文字

 母はにやりと笑うと、紅茶のカップを手の中で弄んだ。カップの縁の金彩が光を受け、きらきらと夕方の湖面のように光る。
「貴方はどういう意味で尋ねているのかしら?」
「どういう意味って、どういう意味でしょう?」と私はきき返した。
「そうね、義理の娘として? 素人探偵さんとして? 母の仇を打つ忠烈な娘として? それとも……友人として?」
「自分でも不思議ですが……最後のが一番近いかもしれません」
「それなら」と言って、母はふと視線を落とした。「話してあげないこともないわ」
「ええ。お願いします」
「とても単純なことよ。私はある晩、自分の夫が寝室を抜け出したことに気づいて彼の後をつけた。すると、書斎の本棚の後ろに隠し扉があって、彼はその扉をくぐって地下室へ下りていったの。怪しい趣味でもあるのかと思ったけれど、何ということはない。彼は前の妻の肖像画の前でウイスキーを飲んでいた。浅はかな感傷ね。それも奥さんの肖像画には一見それと分からないような工夫が凝らしてあって、余計に馬鹿らしくなったわ。でも、ベッドに戻ったら一通の手紙が置いてあったの」
「手紙?」
「その手紙に差出人の名前はなかった。ただ、貴方の母親がどうも危険な遺言を残したらしいということが記されていた。それも分かりづらい場所に……私は落ち着かなくなった。それで貴方の知る騒動が持ち上がったというわけ」
 私は無言で紅茶を飲んだが、もう蜜のように甘い香りも、深い味わいも感じられなかった。その紅茶は最早ただの生温い液体でしかなかった。しかし、母は私のそんな変化に気づかなかったか、あるいは気づいてもどうでもいいと思ったのだろう。当たり前の口調で話し続けた。
「これだけ腹を割って話したのだから、狭霧は自由にしてくださる? 彼を問い詰めたところで貴方には何の得もないわ。お父様の名前に傷をつけたくはないでしょう?」
「どうして、母に毒を盛ったんです? 貴方ぐらいの技量があれば、わざわざそんなことをしなくても、いくらでもお金持ちの男性が見つかりそうなのに」
「褒めてくれるの?」と母は微笑んだ。「貴方は何か勘違いしてるわ。私がこの立場に収まるためにわざわざ人を殺めたと? そんなことしないでも私は十分に暮らしていけたわ。貴方は原因と結果を取り違えているのよ」
「えっ?」
 母はカップの縁を人差し指でなぞり、雫に濡れたその手で自分の頬をさすった。
「いいわ。貴方には本当のことを教えてあげる。私がしたのは人殺しなんかじゃない。最初から話すと……そもそも、黒杜はうちの領地だったの。だから、私が貴方の父親と出会う前から私たちは……私と貴方の母親は知り合いだった。桜の父親は在所の領主で、よく黒杜の本家から季節の新物や和歌なんかが届けられたの。でも、私の父は百姓の長くらいにしか思ってなかったでしょうね。武家風情がってよく馬鹿にしていたもの。とはいえ、黒杜にはうちの血もだいぶ混じっているけれど」
「血が?」
「ええ」母は息をつくと、何を見ているのか分からない遠い瞳になった。「だから、うちが零落してしまうまで、私は桜を自分の妹のように可愛がっていた……愚かな父は十五銀行の倒産も知らずに遊び暮らして、気がついたら一文無し。無理な投機は当然のごとく失敗。そのまま芸者と行方を晦ませて無惨な亡骸が線路脇で見つかった。本当に馬鹿馬鹿しいったら。母は先祖伝来の茶碗や浮世絵を二束三文で売り払って、黒杜の本家に頭を下げてお金を借りて……無理が祟って結核で亡くなったわ」
「それじゃ、あの黒杜の蔵にあった茶碗やなんかは」
「うちのが大分混じってるでしょうね……でも、私が一番腹が立ったのは桜の態度が突然変わったこと。母の結核が移るのも厭わずうちへ見舞いにきて、お米や果物を持ってきたり、いたわしそうに涙ぐんだり。母が亡くなった後、彼女が深刻な面持ちで私に古ぼけた桐の箱を渡したの。何でもさる能面師の手による神楽面で、売り払えばたいそうなお金になるからって。開けてみたら気味の悪い渦模様の黒いお面だった。私は神楽面を投げ捨てて、桜の頬を思いっきり引っぱたいてやった。そうしたら、あの子、ぽろぽろ涙をこぼしながら私の足にすがりついてきたの。だから、今度は蹴り飛ばして、髪をつかんで引きずり回してやった。それでも、文句も言わずにされるがままになって、はあはあ息をついて、頬や耳たぶが湯上がりみたいに赤く染まって……たまらなくなった私はあの子の首に齧りついてやった。まるで吸血鬼みたいに」
 私は無言で母を見つめた。しかし、彼女はうつむいたまましきりに自分の人差し指を噛んでいた。
「あのことがあってから……そう、私は鬼になったの。堰が壊れて、押し留めてきたものが溢れ出てしまったように……でも、後悔はなかった。本当の私自身になれたんだもの。そこにいるのはみじめな貧乏華族じゃなく、新しい、本物の私だった。もっとも、ご先祖様には人を木に登らせて射殺す趣味の人があったそうだから、ただの先祖返りかもしれないけれど……私は桜の頬に噛みついて、細い手首をこれでもかというほど捻じ上げてやった。彼女は悲鳴を上げながら、本当に幸せそうに微笑んでた……お姉様、お姉様、お姉様がお喜びになるなら、私は何だっていたします。お姉様のご不幸は私の不幸、お姉様のお幸せは私の幸せですって。だから、まず初めに羽振りの良い村長の息子と付き合わせて、次に貴方の父親の求婚を受け入れさせた。男爵に見染められると分かっていたら、村長の息子なんて無視したのに……まあ、こればっかりは運だから仕方ない。それから、桜はこの立派なお屋敷に住んで錦紗をまとい、私は潰れ島田に結った芸者もどきではあったけれど……私たちは幸せに暮らした。桜は私の手土産なら何でも食べたわ。全て知りながら受け入れて、段々やつれてゆく彼女を私はずっと見守っていたの。後のことはただのおまけ。無駄に長ったらしい人生を生きるためには刺激が必要というだけ。きっと、もう二度とあんな……」
 そう言いかけてやめると、母は指の腹で唇を嬲るようにしながらガラスの向こうを眺めた。まるで誰か見知った人が散歩しているとでもいうふうに。
 私は紅茶を飲み、木香薔薇の吹きこぼれる辺りをじっと見つめた。
 あの手紙の文句が蘇ってくる……。

 あの人への感情は海外の小説にも、友人の話にも、歌舞伎にも神楽にも出てこない、そう、まるで夢幻の世界にありながら、絶えず忙しない呼吸をしているようなものでした。私は囚われてしまった。そして、そこからもう自力では逃げ出せず、また逃げ出す気にもなれないのです。
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