第34話

文字数 1,774文字

 私の頭は惘然としていたのだろうか。孔雀石や辰砂の性質を碧海に尋ねるつもりでいたのに、芝浦の文壇論にのせられるうちについ忘れてしまった。それを思い出したのは天ぷら屋を出て、まだ飲み足りない二人と別れてからのことだ。鈴蘭の街灯の下を走って追いかけようと思えばできただろう……しかし、群青色の空の底がぼうっと霞んでいるのを見上げたとたん、私の足は自然に止まってしまった。
 不老不死の霊薬を調べたところで何になる?
 そんな思いが心の隅にぽっつりと浮かび、烏の鳴き声がその虚しさに追い討ちをかけた。『抱朴子』の作者以外、私の孤独を分かってくれそうな人は存在しないという気がしてくる。その葛洪さえ約千六百年前に亡くなっているのだから、そういう意味では私は本物の独りぼっちということになる。祖父の弟の惣二郎なら……無論彼も亡くなっているが、彼がもし生きていてくれさえすれば、温かな、大きなてのひらで私の頭を撫でてくれたかもしれない。ちょうど祖父が幼い私にそうしてくれたように。
 低い声が耳元で響いたのは、私がそんなとりとめのない考えを蝙蝠の翼のようにはためかせていた時だった。彼は私の背中に向かって声をかけた。そして、その声は夕闇とともに私の首筋をそっとはい上がってきた。
「紫苑」
 私の声は煙たい春の空気の中でも尋常に響いた。それでも、何かの呪いをかけられてしまったように次の声が出せなかった。よく考えれば、奇遇というほどのことでもない。紫苑は正真正銘東京市の大学生なのだから。
 ひしゃげた学帽をかぶり、詰襟の制服を着て、ベージュのコートをはおった紫苑は和服の時より二、三歳若く見えた。大きな黒い瞳を見開き、彼の方こそ驚かされたとでもいうふうに立ち止まっている。しかし、彼は母親似のふっくらした唇に笑みを浮かべると、コートの一番上のボタンを外してふっと息をついた。
「お散歩ですか?」
「ええ」私も微笑んでお辞儀した。「奇遇ですね。黒杜でお会いしてまたすぐ行き合うなんて」
「本当は今までも行き合っていたのかもしれません。ただ互いに気づかなかっただけで」
 紫苑の深い声は不思議な説得力を持ち、私はそのまま背の高い彼と並んで歩きだした。
「実は、ついこないだまで黒杜にいたんです。祖父の四十九日でお会いできるかと思っていたんですが」
「お手紙だけで失礼させていただきました。まだ体が本当ではなかったので」
「今はもう?」
 顔を上げると、黒い水がたっぷりとたまったような瞳がこちらを見ていた。その瞳は誰かを思い起こさせるものだったが、夕闇の立ちこめた街路ではそれをじっくり突き止めることもできなかった。
「ええ。大丈夫です」
「もし、よろしかったら」
 紫苑は薄暗い階段の前で立ち止まり、まるで影のようにクリーム色の壁にひたっと寄り添った。赤煉瓦の階段の先には喫茶店のドアが見える。ふいに、その階段の白っぽい目地が虫のようにうねうねと動きだしたような気がした。
 私のヒールはその目地に突き刺さったままでいる。すると、紫苑は似合わないことを口にした。
「学生なぞといるところを見られたら困りますか?」
「困るのはそちらでしょう」と私は笑った。「従姉妹の従姉妹って信じてもらえます?」
「しつこく詮索されるでしょうね。あのメッチェンは誰だって」
 その冗談をきっかけに私の眩暈は軽くなり、珈琲の香りに誘われるように紫苑の後について階段を下りていった。
 ドアを開くと、レコードの音楽が細波のように押し寄せてくる。どこかで耳にした記憶があるのに思い出せない……きっと、碧海のアトリエで聴いた曲だろう。満州の事件をきっかけに購入した真空管ラジオ。スピーカーからは砂が流れるような音が聞こえ、その砂煙の奥からさらにバッハの音楽が……。
 乾いた絵の具のこびりついた絵筆。乱雑に重ねられた緑色のスケッチブック。
 イーゼルに立てかけられていたあの油絵は、今もあそこにあるのだろうか?
 私は褐色のタイルを踏みながら店の奥へ進んだ。珈琲の煙で燻されたような色の天井は不思議な緩い曲線を描き、氷柱石の垂れた薄暗い洞窟を思い起こさせた。
 紫苑は代赭色の革のソファに体を埋めると、メニューを取ってこちらへ向けた。どうやら、彼には馴染みの店らしい。私は敵地に乗りこんだ斥候の気分でメニューをのぞき、店員に紅茶を注文した。
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