第25話

文字数 2,231文字

 窟内は意外に暖かく、それでいて岩盤から落ちる雫は氷を伝ってきたように冷たい。石段は湧水でまんべんなく湿り、うっかりすると足を取られてしまいそうだ。角形ランプに照らされたその階段も、周囲の岩肌も石亀の甲羅のように黒々と光っている。一方、頭上は消炭色にぼうっと煙るばかりで何も見えない。すぐそこに天井が迫っているようにも、遥か彼方まで空洞が広がっているようにも思える。暗闇の厚ぼったさが感覚を狂わせているのだろう。
 私と碧海は靴と草履の音を立てながら闇の底へ下りていった。オレンジ色の光がにじみ、溶け、勝手気ままにさまよいだす。雫の音がこだまして怪しい影の踊りを誘う。いや、本当に誰か歌っているのだろうか?
 岩盤が左右から押し合って三角形の空隙を作り出している。足下は海辺じみた砂利道だ。ふと、碧海が岩に生えた抹茶色の苔を指してみせた。やはり、この洞窟には人の往来があるのだろう。その証拠に鍾乳石が二酸化炭素で鋼色に変色している。
 さぁさぁと水の流れる音が聞こえる。腰高の岩を乗り越えると、その先は崖になっていた。私は崖の下にランプを向けた。黒い流れがひと時透明になり、虹色の光が魚のようにゆるゆると滑ってゆく。
「彼らはどこへ行ったんだろう?」
 しかし、隣にいる碧海の表情は凍えていた。彼が見ているのは切り立った崖の向こう側でも、海蛇のようにうねる流れでもなかった。彼はちょうど二人の間にある細い注連縄の巻かれた石筍を凝視していた。
 私は年輪を描くようにぶくぶくと膨れた石筍にランプを向けた。根元に赤いものがこびりついている。その色彩はまるで足跡のように点々と続き、ちょうど崖の縁で終わっていた。しかし、恐ろしいのはそればかりではない。石筍には人間の毛髪が生えた頭皮の一部……そうとしか思えない代物が、べっちゃりと湿布のように貼りついている。
 黒髪は長く、艶があり、どうやら若い女のものらしい。それに気づいた瞬間、私は血の塊が喉をぬるりと滑り落ちてゆくような感じがした。
 碧海はさすがに私より気丈で、黒髪をそっとつまむようにした。
「猿じゃ……ないな」
「猩猩かもしれない」私は血痕を照らしながら言った。「この血……誰かがここで転んで怪我したんだろうか?」
「あるいは、殺されてこの崖に放りこまれたか」
「碧海」私は彼を見つめた。「変だと思わないか? 血痕は点々とこの崖へ向かい、途中で石筍に頭皮がからみつき、崖で終わっている……ここで殺されたなら、なぜ途中にも血が滴ってるんだ」
「よそでやられてここまで運ばれたんだろう」
「それじゃ、この皮膚は?」
「俺にも分からん。しかし、嫌な予感がする」
「とにかく、血の跡をたどろう」
 そう言ったはいいが、昨晩の菫の不可解な言葉と、訴えかけるような瞳が思い出されてならなかった。なぜ、約束を守って手紙を鞄の底にしまったりしたのだろう? 黙って読んでしまえば、息を切らしながら緋色の斑点を追わずにすんだかもしれないのに……。
 私はいつも大切なものを見落としている気がする。そう、いつも。
 周囲の岩壁は赤褐色を帯び、染み出した石灰分がまるで血管のようにとろりとその肌にまとわりついている。溶けない氷となって垂れ、足下のくぼみにたまった鍾乳石は人間の裸体のように柔らかな、こっくりとした線を描いている。岩の色と混じって肉色になっている部分がそう思わせるのかもしれない。
 キンッ、キィンッ。
 金管楽器のような音が聞こえる。私は天井を仰いだ。鍾乳石のか細い管がのび、その先に膨らんだ雫が今にも垂れようとしている。
 キンッ。
 雫の音は窟内にこだまし、本来の何倍にも膨らんで聞こえる。管の太さや長さによって音に違いが生じるらしく、こだまが消えないうちに次の音が重なると、まるで仄暗い水底で誰かが指揮棒を振っているように思える。
 キンッ……また雫が垂れた……私は鍾乳石のくぼみに新しい血痕を見つけた。白いものの上に垂れたせいか、その鮮血は素早く眼に飛びこんできた。
「急ごう」
 そう言うと同時に私は早足になった。一体、何を焦っているのだろう? 案外、あの皮膚は神楽のかつらの切れっ端で、特殊な漆が血のように見えたとか、誰かが小道具を運ぶ際に転んだとか、そんなふうな結果に終わるのかもしれない。しかし……それなら、なぜこんなにも胸が痛むのだろう?
 天然の段差を下りた先は二股に分かれ、私たちは血痕のある右の道を選んで進んだ。その先は意外に開けているらしく、水の流れる音がさっきよりも遠くから響いてきた。
 私はランプの明かりをあちこちにさまよわせた。石筍はこれまでのものより肥え太り、石英の粉でもまぶしたようにきらきらと輝いている。
「炭酸カルシウムだな」
 碧海がそう言って前方を指した。右手は小さな棚田のようになっていて、鍾乳石の囲いの中に水が溜まり、その水もちらちらと光っている。私は早朝の光を浴びた雪原を歩き回った。マッチを擦る音がして振り返ると、碧海がいつのまにかカンテラを掲げている。
「誰かの忘れ物だ」
 碧海はそう言って左方を照らした。そこには溶けかけの巨大な蝋燭をいくつも重ねたような鍾乳石の祭壇があり、大量の水がその背後で見えない滝となって流れているらしかった。
 天然の祭壇のくぼみに、榊の枝と切り紙の神様が飾られている。
 私が見つけた封筒に入っていたのと同じ、古い、古い神様だ。
 息をついた瞬間、私は自分の靴が赤い海に溺れていることに気づいた。
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