第31話

文字数 2,834文字

 科学博物館に足を踏み入れると、外よりも少し気温が低いような気がした。左右に翼を広げた形の建物には、遥か昔に絶滅してしまった生物たちがたくさん眠っている。花見客で賑わう外部から隔絶された、ネオ・ルネッサンス様式の建物の内部は棺桶のように静まり返っている。肌の毛穴が閉じる気がしたのも、ミイラやマンモスの牙などが展示されているという、そんなうろ覚えの知識からの連想かもしれない。
 天井を仰ぐと、白いドームの中央に翡翠色の花模様のステンドグラスがはめられている。正面にある半円形の窓にも青い鳥が二羽、緑色の鳥が二羽左右対象に配置されている。私はヒールの音を立てながら階段を上った。特に行くあてもないのだから、足の赴くままに見て回るのもいいだろう。私は三階の南翼へゆっくりと向かった。陳列場はやや薄暗く、絶滅した生物の化石が飾られていた。デスモスチルスというのは、中新世の千三百万年前ごろに棲息していたカバのような生き物らしい。説明文通り、ごろっとした円柱状の臼歯には瑪瑙じみた縞模様がある。その巨大な艶々した頭部はまるで赤銅色の鉱物のようだ。
 鉱物が展示された場所には、特別あつらえで隕鉄が飾られている。こんなものが空から降ってきて頭にぶつかったら即死間違いなしといった大きさで、何より黒っぽい表面がとろりと滑らかに溶けているのが鉱山のものとは違っている。
 ふと、私は顔を上げて陳列場の奥を眺めた。考えるより先に体が動いたのだ。私はここで何かを見つけたがっている……それはきっと「赤い鉱物」だろう。母の手紙の中にあった鶏冠石。辞書を調べても、ヒ素の硫化鉱物という程度の知識しか得られなかった。しかし、鶏のトサカという名を持つからには鮮やかな赤色の、流れる釉薬のように美しい鉱物に違いない。
 足を踏みだした瞬間、私の肩に何かがそっと触れた。それはささやかな重みだったが、息を詰まらせるには十分過ぎるほどだった。
 振り返ると、市電の行き交う駅前で別れたはずの桃香の兄がいた。
「鉱物に興味がおありですか?」
 いいえ、とも言いかねて、私は微笑みながら頭の中で彼の名前らしきものを巡らせた。誠吾だったか、省吾だったか……。
「あんまり人が多いので疲れたでしょう。不思議ですね。通りはどこも人でいっぱいなのに、ここは静かでしぃんとしている」
「桃香は?」
「あのまま帰しました。父と母と一緒に」
「貴方も疲れた頭を癒したくなったんですか?」
「いえ」誠吾は正面に飾られたオパールを見つめて言った。「私は貴方の後を追いかけてきたんです」
「知りませんでした」私はまた笑った。「桃香のお兄様に探偵趣味がおありだったなんて」
「そんな下劣なものじゃありません」
「下劣?」
「どうしても貴方におききしておきたいことがあったんです。これは兄としての衷心から出たことで、決して探偵趣味でも野次馬根性でもありません」
 誠吾は下唇が見えなくなるほど口を引き絞り、それでいてまっすぐ私を見つめている。
「桃香は幸せになれるでしょうか?」
「それは……私には分かりません」
「貴方は妹の一番の親友でしょう? 確かに貴方の家はお金持ちだ。しかし、財力だけで幸せになれるわけではないことくらい、世情に疎い妹にも分かっているはずです。ああ見えて、桃香は激しい気性を内に秘めています。それに私が拝見したところ……失礼ながら、貴方のご家族は一枚岩というふうには見えませんでした」
「そんな夢のような家族が今の東京市にあるんですか?」
「あってもなくても、桃香には幸せな家庭を築いてもらいたいのです」
 私はため息をついた。直截的に切りこんでくるところはさすが桃香の兄だ。彼との会話は輪舞曲ではなく居合抜きらしい。しかし、それならこちらにも出方がある。
「では、率直に申しましょう」私は誠吾を見つめて言った。「全ては桃香次第です。もうご存じでしょうが、義理の母は私とも兄ともしっくりしません。ですが、母は知恵が回る……いいえ、回り過ぎる分、自分の損になることは決してしません。ですから、堂上華族の娘たる桃香に仇をなすとは思えません。兄にはあの義母とは異なる血が流れています。多少夢見がちで、赤化の疑いで検挙されたこともありますが、それもある意味彼の清純さを物語ってはいないでしょうか? 少なくとも、貴方のお父上はそうお考えになったからこそ、この縁談をお進めになっているのでしょう。二人には新しい家が用意されますし、桃香の情熱と兄の生真面目さはそう相性の悪いものとも限りません……これが私に言える精一杯で、これ以上とやかく申せば人の人生に足を踏み入れた罰を受けることになるでしょう」
 気勢を削がれたのか、誠吾はふうと大きく息をついた。自分の論理に酔う者は、他人の理屈に反発する場合も多い。しかし、彼は感情にある一定の価値を与える、普遍的な青年の長所も兼ね備えているらしい。
「それを聞いて安心しました」
 そう言って踵を返すと、またちょっと振り返ってから言葉を添えた。
「よろしければ、ご一緒に……」
 ともに博物館を見て回ろうという意味か、それとも駅まで送ろうということか。意味も分からずにうなずくと、誠吾の足取りは不思議と軽く、話題も鉱物から江戸時代の紙張子製の遠眼鏡へと振り子のように自在に行き来した。
 ふいに明るくなったと思うと、私たちはいつのまにか博物館の外へ出ていた。会話の途切れぬまま自然と駅の方へ向かい、花見から帰る客、これから夜桜を楽しもうとする客でごった返す人波に溺れだした。
「茉莉花さん」誠吾が急に立ち止まって言った。「さきほどの話ですが」
「えっ?」
「貴方は女性でありながら非常に論理的に話してくださいました。侮蔑的な言葉だと思わないでください。私にとってはありがたいことだったのですから……しかし、苦しくはありませんか? 時に論理というものは」
 その瞬間、鳥打帽をかぶった青年が誠吾の肩にぶつかった。誠吾は軽くよろめいたが、青年は別に謝るでもなく足早に人波をかき分けてゆく。ふと、私は紫檀の香りを嗅いだような気がした。
 次第に誠吾の顔が暗くなり、その右手が黒い上着のポケットをまさぐっている。
「まさか」
 しかし、振り返ってもそれらしき人の姿はなく、ただ学生服を着た青年たちや、洋杖を突いた紳士が通り過ぎてゆくだけだ。
「申し訳ありません」誠吾はなぜか私に向かって頭を下げた。「交番へ寄ります。本当はお家までお送りしたかったのですが」
「いくらかお渡ししましょうか?」
 私がそうきくと、誠吾は耳まで赤くして首を横に振った。
「交番へ行けばどうとでもなるでしょう。では、失礼」
「ええ。お気をつけて」
 私は駆けだした誠吾の背中に手を振り、彼の姿が見えなくなると、自分の手を藤色のジャケットのポケットにそっと入れた。すると、指先が何かに触れた……。
 椿の柄の封筒。
 私は息をついてその封筒を開いた。
 すると、そこには白い切り紙の神様が入っていた。
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