第12話

文字数 2,342文字

 前回の反省から、私は待ち合わせの時間まで眠らずにいることにした。その代わり、体調が悪いとか何とか言い訳して午睡を貪ればいい。私はベッドに潜りこみ、読書をするわけにもゆかないのでやえのいびきを聞きながら物思いにふけっていた。やがて、その音に柔らかな雨の音が混じりだした。ぼた、ぼた、ぼた、と煉瓦にからみついた蔦の茎を雫がたたき、私の鼓膜も震わせる。ぼたん、ぼたん、ぼたん。雨の雫は次第に膨れ、その間隔もまばらではなくなり、ついにはやえのいびきが聞こえないほどになってしまった。
 我慢しきれなくなった私はベッドから起き出し、分厚いカーテンを引いて再び窓を見つめた。その奥がぼうっと墨色に煙っているのは変わらないが、濡れたガラスは遠い外灯の明かりを受けて虹色のかけらを浮かばせている。二時までに雨はやむだろうか? 私は自分の胸が時計の針より忙しなく鼓動を打っていることに気づいた。夜半の冒険を予期して血が騒いでいるだけだろうか? 
 私はもう一度ベッドに潜りこんだが、いつのまにかうっかり眠ってしまったらしい。太鼓や笛の音が今の今まで聞こえていたような……まぶたを開くと、私はライティングビューローの上にあるランプを床に下ろし、そっとスイッチをひねった。時計の針は一時四十五分を指している。オレンジ色にぼうっと照らされた滝のような雨音に閉ざされていた。
 碧海に中止の旨を伝える手紙を書くべきだろうか? それとも、常識的にこんな雨では外に出られないと判断するだろうか? 万一外へ出たとして、私の姿がなければすぐに引き返すだろうか? いや、彼はまだ手紙に気づかず、安眠を貪り続けているのかもしれない。
「茉莉花様」
 やえの声で私は慌ててランプを消した。しかし、今度は彼女の方がベッドの脇にあるランプをつけた。下から照らされた彼女の顔には歌舞伎役者のような隈取が浮かび、何も言わずともそれだけで十分に迫力があった。
「お眠りになれないのですか?」
「ええ」私はランプを元の位置に戻しながら言った。「雨の音で目が覚めてしまったの」
「からりとした冬晴れでしたのに」やえは何も気づかずに言った。「おそらく、黒杜の巫女様がいらっしゃったからでしょう」
「なぜ?」
「黒杜には大きな滝がありましてね、その昔、巫女はその滝にすむ龍神に捧げられたものです。干魃が続けば村中干上がってしまいますから」
「人身御供?」
「はあ、そのようなものでございましょう」
「つまり、黒杜の巫女は龍神の巫女ということ?」
「そうでございます。黒杜というのも、もののたとえでございまして、ええ、あそこは山に囲まれた土地ですから、いったん長雨になると今度は山津波が起こりまして、それを黒い森とたとえもしたのでしょう」
「龍神の巫女が舞ったから、突然雨が降りだしたというの?」
「そう思いますよ。何せ、あの巫女様はおそらく御子神様に祀られるべき方でございましょうから」
「御子神様?」
「霊力のある巫女が亡くなると、子孫と天神をつなぐ祖先神として祀られるのでございます。御子神様は永遠に生き、村の者たちを守り続けるのです。ですから、位牌もお墓も取り壊してしまいます」
「永遠に生きる……木乃伊になって?」
「いいえ。魂が生き続けるのでございます」
 私はため息をついてベッドに戻った。やえが手元の明かりを消した瞬間、廊下で何か物音がした。こんな夜更けに誰かが廊下を走っているらしい。細切れの声も聞こえる。碧海だろうか? 一瞬そんな考えがよぎったが、彼がそんな間抜けなことをするとも思えない。やえは再びランプを灯し、私にベッドに入っているように言いつけてから出ていった。
 黒杜の巫女に呼ばれた雨は延々と降り続き、今はもうどこからどこまでが一続きの音なのかも分からない。どうどうという風の音が響き、その時だけ雨の飛沫が窓をたたきつける音がバラバラと聞こえてくる。
 しばらくすると、乱暴にドアが開かれる音がした。
「茉莉花様」やえはやせた胸元が露わなのも気にせず言った。「大変なことになりました。貯水池が決壊したそうでございます」
「貯水池?」
「そのようでございます」と、やえは目を大きく開いたままくり返した。
 貯水池というのは、製鋼の際に出る汚水をいったん沈殿させ、濾過するための設備で、近辺の河川を汚さないために設けられた施設だ。貯水池には軽便的なものとはいえトタン屋根もあるし、担当の者が適宜放水しているはず……しかし、この山神祭りで警備がおろそかになったか、あるいは普段からいい加減な管理が横行していたものと見える。土砂が下流域の田畑になだれこめば、農作物はおろか土自体が汚染されてしまうかもしれない。
「やえ、レーンコートと携行ランプを早く!」
「おやめくださいませ」やえは私の腕を両手でがっしりとつかんだ。「茉莉花様はお屋敷にお残りください。旦那様たちが向かっておりますし、本社の方へ電報も打つと仰ってましたから」
「土砂が流れたなら、人手はいくらあっても足りないはず」
「いいえ、いけません。この豪雨の中、その細腕ではかえって周りの迷惑になります。土砂で流された人もあるとうかがっております。どうか、どうか、このやえのためと思ってお静まりください」
「人が流された?」
「ええ、狭霧様がそのように仰ってました」
「誰?」
「それは分かりませんが、大方畑を見回りにきた農夫でございましょう。農家にとって、畑は命そのものですから」
 呼吸が荒くなるのは事故の話のせいか、降り続く雨のせいか……やえの骨張った手から伝わる力は強く、とても華奢な老躯から出たものとは思えなかった。
「分かった。お前がそこまで言うなら……とりあえず、詳しい話を聞いてくる」
 私はガウンをはおってドアを開けた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み