第1話

文字数 2,513文字

 車窓の景色はまるで活動写真のように次々と移り変わってゆく。毛皮つきのコートをまとった女、フェルトの山高帽をかぶった男、草色の軍服を着た兵隊たち。砂色の三越と白亜の服部時計店の間を通り抜け、震災後は青に塗り替えられた路面電車とすれ違い、突然飛び出してきた自転車をかわし、カフェー・プランタンの手前でようやくスピードを落とす。
「ここらでいいよ」
 私がわざと蓮っ葉な口調でそう言うと、運転手の蓮沼は短い白髪頭を微動だにさせずクライスラーを路肩に停めた。
「お戻りは何時ごろです?」
「待たなくていい。帰りは円タクでも拾うから」
「しかし」
「そうや、こないだのウビガンの香水は気に入ってもらえた?」
「それはもちろん」蓮沼はちらりと振り返った。「かかあには過ぎたもので」
「何、構わない。喜んでもらえれば嬉しいんだから」
 蓮沼は運転席から降りると、後部座席のドアを開いて四十五度のお辞儀をした。私はあつらえたばかりのスーツの皺をのばし、友人のように隣席にいた中折れ帽を目深にかぶって外へ出た。
 四角い敷石の並んだ鋪道にはほこり一つ落ちていない。道路を渡り、資生堂のショーウィンドーの前で振り返っても蓮沼はお辞儀したままでいる。老齢の彼にとっては男爵令嬢が一人で盛り場をうろつくなんてとんでもないことに違いない。それも男装などもってのほか……しかし、私は幼いころから彼をよく知っている。彼が「共犯者」になってくれるのは、何も奥さんの香水や子どものおもちゃにつられたからじゃない。彼も私をよく知っているのだ。女子学習院から帰る際、意味もなく遠回りしてもらっていたそのわけを。
 銀座八丁の迷路をたどるうちに、空は次第に暮れなずんできた。空のてっぺんはまだ青いのに、底の方はかすかな朱鷺色に染まっている。そして、それはこの界隈が活気を帯び始める合図でもある。歌舞伎がはね、デパートが閉まってからが本場なのだ。
 私は白黒コンビネーションの革靴のかかとをカッ、カッと鳴らしながら薄暗い階段を下りていった。色あせた赤煉瓦の壁と、赤や黄のガラスのはめこまれた木製のドア。私は乾いた鐘の音を鳴らしてドアを開ける。その先にもやはり隘路が続いている。艶々と光る栗色の床板。葡萄酒色の革張りの鋲留めソファ。甘くて苦い珈琲の香り……店主はこの珍妙な珈琲なるものを遥か伯剌西爾から仕入れている。本当は砂糖もミルクも加えずに飲むものなんです。しかし、ほとんどの客は彼の忠告になんて耳を貸さない。こってりした珈琲よりもココアのほうがむしろ売れ行きが良いくらいだ。通人を気取る連中を除いては、皆もっぱら洋酒をあおっている。だから、大概珈琲はラッパのついた旧式の蓄音器同様、馥郁とした香りを漂わせるだけの装置と化している。
「あの夫人はいただけないね」
 すでに数杯を干したであろう塚崎が、毛深い指でネクタイを緩めながら声高にののしっている。私が一行の席に着くと、彼の隣にいる芝浦が前屈みになってそっと教えてくれた。
「ほら、『ボヴァリー夫人』さ。やっこさんあれを見て息巻いてんだ」
 芝浦いわく塚崎は三文文士崩れだが、私の見たところ芝浦自身も飄々として得体のしれないところがある。店主がルシアンティーを運んでくる。洋酒を落とした紅茶に、血の色をしたジャムを添えたもので、彼はなぜか私がそれを注文するものと決めてかかっているのである。
「いくら美しい女でも、ああ傲慢じゃやりきれん」塚崎は私をちらっと横目で見て言った。「まるでこの世には自分の恋のお相手か、下僕しか男は存在しませんといった風情だ。これで俺の説が正しかったことが証明されたろう? 女に自由を与えてもろくなことにはならん。女には論理というものがからっきし理解できないんだからな。あいつらは感情だけで生きて、物事を構築して発展させるということができない。できるのはせいぜい……」
 そこで塚崎が卑猥な笑みを漏らしたので、自然と皆の視線が私に集まった。
 私は紅茶を一口飲むと、脚を組み、膝の上に両手を組んでのせた。
「さて、白鷺男爵の御令嬢」芝浦は咳払いして言った。「いや、御令息はどう反論いたしますかな?」
「塚崎の意見に賛同する者は多いだろう。確かに世の中には、自らを動物たらしめている女性が大勢いるのだから。学問の機会の有無を言うんじゃない。実際、男性の言うように生きる方が得だと思う女性が多いということだよ。今のところ、社会の実権を握っているのは男性だからね。しかし、塚崎は一つ大きな勘違いをしている」
「勘違い?」
 塚崎はウイスキーをあおり、空になったグラスをテーブルに置いた。
「ああ、勘違いだ」とうなずいて、私は充血した塚崎の目を見つめ返した。「君は感情の価値を低く見積りすぎている。感情は必要と不必要、真実と偽りを見抜く最良の武器だ。論理だけなら、あっちも正しければこっちも正しいと証明することができる。論理はどこからでも拝借してこられるからね。結果、どちらも正義を振りかざした戦になる。君たち男が死に物狂いで構築したものは、この戦争を前に滅び去ることになる。勝っても負けても無傷ではいられない」
「まるでプロレタリアートの言い草だな。お前は立憲君主国を否定するのか?」
「この日本は天照大神なしでは明けぬ国だ」と私は笑った。
「ほら見ろ。女は全てを茶化してしまう。まるで討論にならん」
 塚崎がそう言ったところで、芝浦が空のグラスにウイスキーを波々と注いだ。
「しかし、今日のところは君の負けだね。君に有利な舞台で戦った結果だ。男らしくそれを認めちゃどうだい」
「貧乏画家なら認めるんだろう。俺はまだ屈しちゃいない」
 すると、端に座っていた碧海が塚崎をにらんだ。しかし、彼ににらむつもりがあったかどうか分からない。芸術家の端くれだけあって、切れ長な彼の瞳はちょっと揺れただけで白刃が閃くようだったから。
「俺が屈するとすれば相手は一人だけだ」
 碧海は手にしたグラスを口に運んだ。私からは険峻な横顔が見えるばかりで、その瞳はもっぱら塚崎に向けられていた。
「俺は知ってるよ」芝浦が仰け反ってまた茶化した。「君のお相手は『消えた女』だろう?」
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