第37話

文字数 2,318文字

 私は噴水のある瓢箪池まで来ると、中ノ島の茶屋に腰を下ろした。
 西の空はまだらな朱鷺色に染まり、藤色の雲の腹には鮮やかな緋色がにじんでいる。私は視線を劇場の屋根からすうっと右方へ滑らせた。そうしたところで何も見えはしないのだが……凌雲閣の巨大な提灯じみたアーク灯が眩く点り、寂しいような、懐かしいようなジンタの音色が響きだすのではないか……そんな期待がどこかにあったのかもしれない。しかし、空の色を映す水面にその雄姿は見当たらず、ただ麩を待つ鯉が変に生々しい口をパクパクさせているだけだった。
 私は抹茶をすすってポケットに手を入れた。それから、椿の柄の封筒を取り出して中をのぞいた。本当は誰もいない場所でつくづく眺めたかったが、切り紙の神様は脆弱で、ささいな風にもさらわれてしまいかねなかったから。
 古い、古い神様。そう言った菫の声が蘇ってくる。
 空から降る青は冴え冴えと澄み、雲の腹に宿る赤は悽愴なまでに燃えている。やがて、冷たい闇が落ちて全ての線を曖昧に溶かしてゆくのだろう。人の姿も木々の輪郭も、水と土との境界線も分からなくなってしまう。しかし、六区の灯火はその自然の力に対抗するように煌々ときらめいている。どこからか、風に乗って酔客の鼻歌が聞こえてくる。それと同じ風が運んできたのか、かすかな紫檀の香りが鼻をくすぐる……ふと気づくと、私の横に鳥打帽をかぶった青年が座っていた。彼はまっすぐに池を見つめ、それでいて私にだけ聞こえるような声でささやいた。
「迷子だね」
 顔を上げた瞬間、琥珀色の瞳にぶつかった。石英を鋼鉄片に打ちつけるように、その瞳の中で火花が流線形を描きながら散ってゆく。
 睡蓮は紅のにじんだような唇で微笑み、そら、というふうに指差した。
「交番ならあっちにある。連れて行ってあげようか?」
「君は」私は封筒をポケットにしまった。「そんなところへ行くのは嫌だろう?」
「なぜ」
 睡蓮が笑うと、その淡い色の瞳は水面のように揺れた。光の加減でそう見えるだけかもしれないが、私にはそれが彼女の内奥を映し出す水鏡に思えた。
「君の前科を並べたら、とても窃盗罪くらいじゃ収まりそうもないから」
「人間の尺度で測るからだ」
 睡蓮は呑気らしく頭の後ろで腕を組んで伸びをした。青白い首筋の真中に喉仏が膨らんでいる。それは皮膚を伝う小さな虫のように滑らかな曲線を途切れさせ、その一方で強調している。私は自分の喉が鳴る音を聞いた。
「人間の世界で収まるなら」睡蓮は歌を口ずさむように穏やかな声で言った。「どうして、貴方はこんなところで独りぼっちでいるんだろう? 立派な家も、待っていてくれる人もいるのに」
「ただの骨休めだよ。暗くならないうちに帰るつもりだ」
「惣二郎」
 耳たぶをくすぐる声に私の肌は粟立った。それは人間が出そうとしても決してできない、木琴の音色のように嫋々たる深い声だった。
「まだ目が覚めないのか?」
「夢を見ているのは君の方だ。その証拠に、もういない人間の名を口にしている」
 そう言って微笑みながら、私は頭の中に聞き覚えのある声が響くのを感じた。

 こんな寂しい場所で、いつまでも古びた紙切れなぞ見ていても無駄だ。この世には人格をそなえた神も仏もありはしない。あるのはただ混沌だけだ。その混沌の中を泳げる者だけが生き残る。ひどく単純な道理だ。そう、遥か昔を思い返してみればいい。お前の先祖は生涯かけて田畑を耕し、骨と皮ばかりになって死んでいった。しかし、そのうち一人が一大決心してこの都会へ足を踏み入れた。彼は番頭の仕事を覚え、大汗かいて働き、博打を打つような真似をして一財産を築き上げた。その子どもは生まれながらの学士様。次は学士様がお偉い役人や校長や医学長なんかに取り入り、そのまた子どもは生まれついての上流貴族。今の世の中、爵位も尊敬も金で買えるというわけだ。しかし、本物の華族はお前の先祖が百姓だったことを決して忘れない。かといって正反対の世界に潜りこんでも、彼らはお前を仲間とは認めない。周囲にあるのは敵意ばかり。芸術の世界に救いを求めても貴族の手習いと笑われるだけ。どこへ行ってもお前は独りぼっちで、これ以上登ることもできなければ、下りたところで足を着ける地面もない……。

「目が覚めたら十二階から真っ逆さま」睡蓮は口角をゆがめて笑った。「あるのは永遠の薄闇だけ。畢竟、人間は死ぬために短い生を齷齪と生きて、自分の種を残すために他人の種を潰す。土竜が土の中で縄張り争いしているのと同じだよ」
「それなら、どうすれば?」
「一緒に行こう」
 睡蓮の声を聞くと、喉の奥がむず痒くなって、心臓が痛いほどに動悸を打つ。私はお茶代を露台に残し、酔ったようにふらりと立ち上がった。
 茶店の明かりを斜に受けた睡蓮の顔には、神楽面じみた影の隈取りがぼんやりと描かれている。その中で左眼だけが溶けた飴のように艶々と光っている。
 睡蓮が腕をのばし、私の手をつかんだ。不思議と膝に力が入らず、私は坂道を下るように前のめりになったまま数歩進んだ。
 池の水面は鉛色にのたうち、満月と見紛う月明かりが細波を白く照らしている。
「どこへ?」
 歩きながらそうきいたが、睡蓮は何も答えなかった。
「どうして、私を連れにきたの?」
「はぐれ者は一目で分かる」
「それは」と言いよどんで、私は水面に視線を移した。「今、影が」
 鯉がぬるりとした鈍色の鱗を光らせ、また池の底へ潜ってゆく。ただそれだけのことだったが、睡蓮ははっと振り返って私をにらんだ。
 気づくと、私の手は前方へ差し出されたまま宙に浮いていた。
 さわさわと葉をなびかせる柳の下で、私は独りたたずんでいるばかりだった。
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