第5話

文字数 2,155文字

 兄の部屋のドアをノックすると、中から低い声で返事があった。
「だめだ」
 私は構わずドアを開けた。それならノックする必要もないわけだが、兄が優しくどうぞというはずもないので仕方ない。礼儀にもとるよりいくらかましだろう。
 兄は分厚いカーテンを閉じたまま、わざわざランプを灯して読書していた。緋色の金唐革紙の壁がきらきらと輝き、黒檀の書棚も同じ光を浴びて艶めいている。私は書棚に詰めこまれた飴色や檜皮色の革の背表紙を眺めた。しかし、どれも仏蘭西語や独逸語らしく、私には読めそうもないものばかりだった。
「いけないと言ったのに」兄は物憂げに立ち上がり、私から書物を守ろうとするように鋭い視線を向けた。「一体、何の用だ」
「彰さん」私は微笑んだ。「なぜ私がいると困るの? 妹には見られたくないものがあるのかしら」
「馬鹿なことを」
「でも、ほら」
 私は黒い紙函を書棚から抜き出そうとした……その途端、兄の手がのびて私の手首をつかんだ。
 私はまた笑みを浮かべて言った。
「この本はなぜ箱だけで中身が空っぽなの? まるで御伽噺みたいにこの奥に秘密の仕掛けがあって、それを動かすと大きな隠し扉が現れるの? そして、その向こうには背表紙の赤い本がたくさん……」
「お前は自分の言ってることが分かってないんだ」
「自分のしていることが分かってないのは彰さんの方でしょ?」
 眼鏡の奥にある瞳が、急に光を向けられたように細くなる。
 兄は赤化の疑いで尋問を受けた日のことを思い出しているのだろう。彼は転向によって解放されたものの、結果としては仲間を裏切ることになり、今ではむしろ搾取する側に立って暮らしている。たとえ、労働者の環境改善のために尽力しているとしても、それはただの言い訳にすぎない……そんな疑いが彼の中に兆しているのだろう。実際に鉱山へおもむけば俗にいうよろけ……珪肺のために寝たきりになった男たちが大勢いるのだから。
 兄は私の手首を解放してチッペンデール様式の椅子に座り直したが、やはり顔だけはこちらへ向けたままだった。
「お前には呆れるね。なぜ、何か尋ねるのに取引が必要だと?」
「何の話です?」
「お前がその気ならいいだろう」
 兄はそう言ってため息をつくと、スミレの形をしたランプをほうっと仰いだ。
「俺もお前の弱みを握っているとしたら? 蓮沼に賄賂を渡して、夜な夜などこをほっつき歩いてるんだ」
「証拠はあるの?」
「証拠の方からやってきたんだ。塚崎って男を知ってるだろう」
 私は無言で兄を見つめ返した。
「文士ってのは金に困ってるものなのか? お前の秘密が暴かれたら、評判が傷つくだろうと言うんだよ。嫁入り前の女性にふさわしくない言動が多々見られるとね」
「なぜ、頼んでもないのに皆私の心配をしてくれるのかしら? 優しい方が多すぎて困るわ」
「分かってるさ。お前がこのくらい何とも思いはしないのは。僕はただお前に言いたいだけだよ。話をややこしくしているのはお前のその性格なんだ。こんなふうに取引を持ちかけられたら、誰だって嫌な気持ちがするだろう? ききたいことがあるなら素直にきけばいい。頼みたいことがあるなら普通に頼めばいいんだ。お前が何の用もなしに僕のところへ来るはずがないのだから」
「それじゃ率直にききます。私が探偵に宗旨替えしたら彰さんはどう思う?」
「どうって……いかにもお前らしいと思うだけだよ」
「実は、私『消えた女』を捜しているの」
「消えた女?」と笑って、兄は背もたれに寄りかかった。
「鉱山にある別宅に肖像画が飾られているでしょう? 画家の碧海に見せた絵。私は彼女が誰なのか知りたいの」
「それなら碧海にきくがいい」
「もうきいたわ」
「それじゃ知ってるだろう。僕が何も知らないことを」
「ええ、知ってるわ。貴方が何か隠したがっている……それでいて、伝えたがっていることを」
「へえ」と兄は笑みを深めた。「なるほど。いかにも探偵らしくなってきたじゃないか」
「これだけ答えていただきたいんです。彰さんはお祖父様の弟の話をご存知?」
「お祖父様の弟……惣二郎といったっけ? 変わり者だったことなら知ってるが」
「彼が出会ったという不思議な女性の話は?」
「さあ?」
「それなら、話してさしあげるわ。若いころ、惣二郎さんは浅草の人混みの中で鬼に出会ったの。とても美しい女性だったらしいわ」
「茨木童子めいた話だね……つまり、あの絵はその女性を描いたものじゃないかと疑っているわけか」
「そういうこと」
「しかし、それを知ってどうする? それが惣二郎さんの知り合いか恋人として、もうとっくに亡くなっているだろう」
「それがそうとも限らないの」
「そりゃ、長寿な女性もいるにはいるが……もう昔の話などろくに覚えてないだろう。まさか、本物の鬼だとでも?」
 私は笑みだけでそれに応えた。
「呆れたね」と兄も笑みを返した。「その人はお祖父様の隠し財産でも握ってるのかい?」
「ご心配なく。彼女は惣二郎さんのおめかけでも何でもないわ。それどころか、瓢箪池のほとりでふうっと消え失せてしまったらしいの。見世物小屋の『鬼の腕』を盗んで」
 兄は眉根を寄せて私を見つめた。私は黒い函を軽くなで、くっきりとした笑みを浮かべて言った。
「今年は私も山神祭りに参ります。たった一つの手がかりですから」
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