第17話

文字数 2,667文字

 私には確信がある。一呼吸置き、目を見開いて、わざとらしく何度もうなずいてみせた……そう、やえは嘘をついている。
 でも、やえの話のどこが嘘でどこが本当なのだろう?
 二階の中央にある部屋の位置といい、時代がかった鏡台といい、ここがかつて母の部屋だったというのは事実だろう。母もこのベッド……当時は蒲団だったかもしれないが、ともかく窓際は寒いだろうからこの場所で寝起きし、身支度を整え、本を読んだり友人に手紙を認めたりしていたに違いない。菫の部屋にあった桜の彫り物のある机も、元々は同じ名を持つ母のものだったかもしれない。
 私は石油ランプを灯し、壁に浮かぶ白っぽい四角を凝視した。それから、碧海の真似をして少し離れた場所からその角を両手で縁取ってみた。
 考えすぎかもしれない。しかし、長方形の空白は菫の部屋に飾られていた絵画よりやや大きく見える。明日になって絵画を実際に借りてみれば分かることだが、それよりほんの一回り……そこまで考えて私は息をのんだ。
 鉱山にある屋敷の秘密部屋に飾られていた絵画。あれならこの空間にぴったりはまるんじゃないだろうか?
 そう考えれば全ての辻褄が合う。あの肖像画は元々母が嫁入り前に描かせたもので、おそらく服装も本家の娘らしい華やかな、あるいは無垢な感じのものだったのだろう。それから、母が兄を産み、私を産んでしばらくしてから実家で亡くなった。父は母を慕ってその絵画を譲り受けて書斎に飾っていた。しかし、再婚することになり、その絵を家に置いておけなくなった。そこで義母の嫉妬を逃れるため先祖伝来の絵画に見せる工夫を凝らし、用心を重ねて別荘の秘密部屋に隠した。父は仕事で鉱山に出向く際や、山神祭りの時だけそこに忍びこみ、母と差し向かいで洋酒でも飲んでいたのかもしれない。
 しかし、碧海が寝ぼけていたのではなく、母が本当に夜な夜なあの絵画から抜け出して屋敷をさまよい歩いているとしたら?
 母はなぜ私の前に現れてくれなかったのだろう? 誰かに伝えたい、一方で私にはあまり知られたくない事実があるというのだろうか?
 突然、私はハムレットの世界に迷いこんでしまったことに気づいた。いや、私は自ら進んでその森に分け入ったのかもしれない。彼は父王の亡霊によって復讐へと導かれる。そして、私も今こうして母の故郷に出向き、というよりは更迭され、軟禁にも等しい生活を送っている。叔母がしきりに役所へ出かけるのは、私の動向を認めた手紙を東京の方へ送っているのだろう。
 私は下唇を噛むと、意を決して壁に浮かんだ空白を再び見つめた。
 母の秘密。そして、義母と狭霧の怪しい言動。その二つをつなぐ糸は一本しかない。
 私はベッドの縁をつかむと、腰をかがめてその角を持ち上げた。あまり物音を立てては叔父や叔母に勘づかれるおそれがある。しかし、幸いなことにこの部屋の真下は居間だ。ギッ、ギッという音がするたびに息を止めつつ、ベッドを少しずつ動かしてゆく。もし、本当にここに母の肖像画がかかっていたとしたら、例の翡翠の腕輪をはめた手が指していた場所はちょうどこの辺り。しかも、それは梁にうがたれた二つの瞳の視線が落ちる場所でもある。
 次の瞬間、私は手を滑らせて尻餅をついてしまった。
 床の上に、小人が使いそうな扉がある。
 私は表面のほこりを払い、ゆっくりとその扉を開いた……すると、小人の私室のようなくぼみに黄ばんだ椿の柄の封筒が置かれていた。
 糊付けはされていない。私はそっとその封筒を開いた。
 この封筒の中には、義母と狭霧の罪を告発する手紙が入っているに違いない。だからこそ、自らを罪人と知る彼らはその発覚を恐れ、あの秘密部屋に人が近づくことを嫌っていたのだろう。あわよくば、自分たちが先に証拠を見つけて破棄しようと狙っていたのかもしれない。母は今際の際に、犯罪の手がかりの存在を匂わせるような言葉を残した……それが医者、あるいは叔父や叔母の口から漏れた可能性もある。私は毒物には詳しくないが、当時の書生から聞き出した錯乱、吐き気などの症状は急性ヒ素中毒とも似ている。義母は女中を丸めこみ、産後の肥立ちが悪かった母をそのまま死に追いやり、自分がその席に座ろうとしたのだろう。
 私はかすかに指が震えるのを感じた。
 封筒は空ではなかった。しかし、私が予期していた告発文はなかった。
 紙には違いない。しかし、それは白い紙で作られた「神様」だった……一枚の紙を切り抜いたのか、二枚の紙をうまくつなげてあるのか分からない。頭髪は波か雷を表すようにジグザグに縮れ、それが着物をまとった肩を通して腕の先までつながっている。二つの目、それに小さな口もある。腹部にまた人の顔のようなものがあり、そこから雷模様じみたふさが垂れ、ひどく細長い足とも裳裾ともつかないものを形成している。水か火の神、あるいは祖先神かもしれない。こういう切り紙の手法は代々口伝で継承されるという。菫ならこれが何の神様で、どんな意味を持つのか知っているだろうか?
 私は切り紙の神様を千切れないようにそっと封筒に収めた。それから、小さな扉を閉じて、重たいベッドを元の位置に戻した。
 私は息をついてカーテンを開けた。ガラスの窓には冴えた藍色がにじんでいる。まもなく夜が明けるのだろう。
 カーテンを閉め、ベッドに戻ろうとした私は小さな物音に振り返った。木の葉がガラス窓をかすめるようなカサッという音が聞こえた。
 奇妙な胸騒ぎを感じて窓を開けると、予想していたより深い夜の闇が墨汁のように重く垂れこめている。窓を閉めようとした瞬間、私は一階の屋根に何か白いものが落ちていることに気づいた。
 それは薄青い闇の中で、ハマグリの半化石のように白く透明に輝いていた。私は目をこらしてその小さなかけらを見つめた。
 ヤモリが腹を上にして寝ている。いや、死んでいるのだろう。柔らかそうな腹をぐるりと囲むように血の赤い筋が走っている。鳥が途中で落としたのだろうか? それとも……。
 禁呪。そう書いて「まじないやむる」と読む。
 私にそう教えてくれたのは誰だろう? まるで波の中で聞く歌声のような……。
 私は無意識に親指をほかの四本指で隠し、やや手を緩めてからそっと息を吹きかけた。
 屋根の下の茂みが揺れている。あの揺れ方は野良猫や野鳥ではない。もっと大きなものだ。
 私は自分の唇に笑みが浮かぶのを感じた。
 可哀想に。呪い返しは、より大きな波となることを知らないらしい。
 私は自分の中に母の血が流れているのを感じた。
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