第32話

文字数 2,600文字

 上野から国鉄を乗り換えて神保町で降りると、私は新書店古書店を問わず次々と渡り歩いた。さすがに学生の町らしく、学帽をかぶって制服の上に薄いコートをはおった青年たちが大勢たむろっている。彼らは軒先に平積みされた書籍の山を漁っていたが、私も負けじと仲間に加わって目当ての本を探した。
 鉱物の本を読んでも聞き慣れない用語ばかりで埒が明かない。そこで発想を変えて煉丹術の本を紐解くことにした。私は町屋を思わせる細く長く、奥深い本屋に入り、目で背表紙の文字を追いながらそれらしき本を探した。夏目漱石の初版本にうっかり惹かれそうになったが、今は橋口五葉の表紙に見惚れている場合ではない。私は目指す『抱朴子』を手に取ると、そのページをはらはらとめくった。そこには永遠の命、もしくは黄金を得るためのかなり真摯な、それでいて思いのほか数多くの手法が記されていた。夢中になった私は思わず口ずさんでいた。
「丹砂、雄黄、雌黄、石硫黄、曾青、礜石、慈石、戎塩、太乙余糧……」
 奥にいる中折れ帽の紳士が顔を上げる。私は口をつぐんで目だけでその先の文章を追った。説明を読んでも今一つ意味が分からないものが多い。私は後ろの棚から鉱物の図鑑を取り上げ、一つ一つの原料をそれと見比べながら解読した。
 丹砂というのは顔料や水銀の原料になる辰砂のことで、化学的には硫化水銀と呼ばれる。水銀の名前は錬金術の本でちらちらお目にかかるが、はっきりしたことはよく分からない。水銀を用いて純金を取り出すアマルガム法が錬金術の礎になったからだろうか? これは兄にきいた方が手っ取り早いかもしれない。次に、雄黄というのが硫化ヒ素。つまり鶏冠石だ。雌黄はこれも硫黄とヒ素の化合物だが、赤ではなく黄色いものをいうらしい。図鑑には「美しい黄金色」とある。石硫黄は硫黄の結晶のこと。曾青は孔雀石。これもメソポタミアの時代から顔料や化粧に使われるほど人類との付き合いが長い鉱物だ。銅山に偶然採取された綺麗な鉱石がいくつか陳列されていて、その中に孔雀石もあった覚えがある。礜石は硫砒鉄鉱。慈石は磁鉄鉱。戎塩は岩塩。太乙余糧というのはナフサのことらしい。いくつかは兄より画家の碧海にきいた方が詳しく分かるだろうか?
 しかし、煉丹術を行うにはこれらの材料をそろえるだけでなく、これもまたややこしい材料で封泥をほどこし、そのうえ何だか分からない祭りをしてから混ぜ合わせなければならないらしい。人を不死にするにはかくも多くの行程が必要なのだ。
 不死と黄金生成は書物の中で混じり合い、著者自身さえどちらを目指すのが本物の煉丹術か分からなくなっているようだ。すると、やはり不老不死というのはある種の比喩で、黄金にたとえられる何か……決して色褪せない、傷つかない何かを自分の中に芽吹かせようという儚い努力なのだろうか?
 咳払いに顔を上げると、『今昔百鬼拾遺』に出てくる「芭蕉精」のような店員が私をにらんでいた。しかし、財布を取り出すと、彼は妖怪からハタキを持った恵比寿に変わった。
「貴方みたいな方は珍しいんですよ」
 彼の店の書物を購入しようというのに、私のことをまるで珍種の猿のようにじいっと見つめてくる。
「永遠の命に興味があるので」
 そう言うと、私は本を片手に薄暗い店を後にした。
 鈴蘭の形をした街灯が並ぶ通りを歩きながら、私は碧海と芝浦の待つ天ぷら屋へ向かった。本屋で思ったより時間を食ってしまったから、二人は先に来ているかもしれない。案の定、奥のテーブル席から手を振る芝浦の姿が見えた。
 注文をすませてしまうと、麦酒を飲んでいた芝浦が鞄の中から分厚い原稿用紙の束を取り出した。それで私はやっと会合の理由を思い出した。暇潰しと将来への展望を兼ねて、私は女学校時代に習い覚えた英語を弄んでみたのだ。
 碧海の前には徳利が二本並んでいる。彼は赤く染まった頬をほころばせると、自分のあごをなでながら原稿用紙を無言で見つめた。
「思ったよりよかったよ」芝浦はビールを一口飲んでから言った。「これはあくまで個人的な見解だが、やっぱり女流作家のものは女に訳してもらう方がしっくりくる。しかし、ある程度はお兄さんに手伝ってもらったんだろう?」
「ある程度は」と私は微笑んだ。
「素直で結構」と芝浦も笑った。「俺のとこじゃ無理だが、知り合いに探偵小説を扱ってるやつがいるから頼んでみよう」
「本当に?」
 芝浦は軽くうなずいて原稿用紙をパラパラとめくった。枠内枠外問わず、赤い色鉛筆の文字が踊っている。どうやら、彼なりに「ある程度」納得いかない部分があったらしい。
「修正の山だな」と今度は碧海が笑った。
「正確な訳と読みやすい文章が必ずしも幸せな結婚をしてくれるとはかぎらない」と言って芝浦は赤い文字を指した。「この『トライフル』てぇのは何だい?」
 私は身を乗り出してその箇所を見つめた。「ああ、それ。英吉利のデザートだよ」
「とらいふるじゃあまず読み手には伝わらんよ。正確にはどんな菓子だ?」
「ちゃんとしたデザートっていうより余りものの寄せ集め。名前自体『つまらないもの』って意味だから。スポンジケーキ、カスタードクリーム、生クリーム、フルーツ、ゼリーなんかを層状に重ねてあるの。そのスポンジケーキに葡萄酒をしみこませてあったり」
「つまらないものの割には随分豪勢だな。それ、どこで食べたんだい?」
「うちで。丸善でレシピ本を取り寄せてやえに作ってもらったの」
 はあ、とため息をついて芝浦は頬杖をついた。
「いいかい? 例の友人が発行してる雑誌の購読者はこの東京市だけじゃない、全国にいるんだよ。知的興奮を得るために、毎月この雑誌が届くのを心待ちにしている勤労青年たちがね」
「もっと分かりやすくしろというんだね」
「そういうこと」
「スポンジとクリームとフルーツのケーキ」
「長すぎるな。いっそ注をつけた方が早いが、あんまり注が多いのも嫌われるんだ。集中が途切れるから」
「いっそほかのデザートに変えようか?」
「しかし、この菓子の性質自体が謎解きに深く関わってくるだろう? 君が訳したのに何言ってるんだ」
「それじゃ、ごちゃまぜケーキというのは?」
「まずそうだな」と碧海が口をはさんだ。「それより、俺はこっちの方がいい」
 天丼が到着すると修正だらけの原稿用紙は片付けられ、私の頭も芳ばしい香りにすっかり支配されてしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み