第20話

文字数 2,686文字

 梅の香が漂う浅葱色の空の下に、青竹が数本、ひゅうっと弧を描いている。その笹には白い切り紙がたくさん垂れ下がり、風に揺られてひらひらくるくると踊っている。この切り紙は神様でもあり、神様の宿る印でもあり、神様の憑代でもある。オハケが立つということは本家がそのまま神の宿になるという証なのだ。そういう私も今日ばかりは洋服でなく、白い椿の柄が入った葡萄色の錦紗に唐草模様の帯を締め、蝶々が舞う菫色の裾濃の羽織をまとって気合を入れている。
 本家は朝から神楽の支度に追われていた。祖父と叔父と紫苑は神主とともに神迎えに行き、叔母と菫と私は親戚や女中たちとともに神楽の合間に出す食事の準備をした。といってもやはり私は厄介者で、お握りを握れば形が変だと笑われ、おすましの蒲鉾をお椀に入れれば三切れは「身斬る」につながるから武家の血を引く黒杜家では縁起が悪いと怒られる。それなら四切れと思ったがこれは「死」を連想させるからより縁起が悪く、初めから二切れと言ってくれればいいのにとぼやくうちに肘で鍋をひっくり返し、もう貴方は向こうに行ってちょうだいと菫に追い出された。
 私はむしろ男たちに混じって黒杜神社の祠へ藁蛇様を迎えに行きたかった。藁蛇様は普通の藁で作られた蛇、あるいは龍なのだが、洲楽の手が入ったためか角や爪の造形は今にも動き出しそうなほどで、瞳にはガラスの目玉もはめられている。藁蛇様は赤松と祠にぐるぐる巻きにされ、神楽の当日に猿田彦一向に迎えられて、うねうねと宙を泳ぎながらオハケの立つ舞処を訪れるのだ。
 風に流されてか、猿田彦の道行きの笛の音が途切れ途切れに聞こえてくる。同じ道行きでも地方によって少しずつ音色が異なるのは面白い。私は足音軽く玄関をくぐり、色とりどりの鼻緒がすげられた草履を踏み分けて家の中へ舞い戻った。
 杉板を漆塗りした廊下は黒々と輝き、ゆがんだガラス越しに庭の松の枝がエメラルド・グリーンの色ににじんでいる。左手には十畳の茶の間があるが、今日は奥の十二畳の居間との間にある襖が全て取り払われ、龍の透かり彫りのある欄間だけが取り残されている。居間の鴨居には注連縄が張り巡らされ、そこに菫と私の作った切り紙がぶら下がっている。東方向には春を表す桜の散る流水模様、南には樹木と蝉、西には紅葉、北には雪。そして、その中央には祖父の手による巨大なクラゲじみた切り紙が吊るされている。これは天蓋と呼ばれるもので、神が降臨するときには自ずから強く震え、紙片が千切れて吹雪のように舞い散るという。
 新しい畳を敷き詰めた舞処の奥には祭壇が築かれ、榊や鯛、大根や蜜柑などが捧げられている。その下段には神楽に用いる古い神楽面が並んでいるが、洲楽に預けた例の奇妙な迷路文のお面は見当たらない。あれは神楽に使用するものではないのだろうか? 不審に思っていると、太夫の即席楽屋を隠した桔梗色の幕が震え、千早に緋色の袴をまとった睡蓮が姿を現した。
 睡蓮は初めて会った時と同じように目尻を赤く染め、唇が玉虫色になるまで紅花を塗り重ねていた。彼女を目にすると、私は言うべきだったはずの言葉や、考えるべき内容が全て溶けて消えてゆくのを感じる。微笑みは彼女の唇を桂の葉に似た綺麗なハート形に変え、薄茶色の瞳は灯火で琥珀のような艶を浮かべている。そう、私は……胸元に封筒を……確か、彼女にききたいことがあったはず……私は街灯に吸い寄せられる哀れな蛾のように彼女に近づいてゆく。鱗粉が舞い散り、羽根がぼろぼろになるのも構わずに体当たりをくり返す愚かな虫。
 いつのまにか、祭壇の前で藁蛇様がとぐろを巻いている。ガラスの目玉が溶けた飴玉のようにきらきらと光り、榊の葉の上では小麦粉じみた光が踊っている。神主が祭壇に向けて大幣を振り、私にはうめき声にしか思えない声を上げている。七座の神事が始まったらしい。黒杜の者は本家も分家も祭壇の前に集まり、あるいは頭を下げ、あるいはまぶたをつぶって神妙にしている。日ごろは飲んだくれている者も、女遊びに余念がない者も、女中いじめに興じている者も皆平等に祖先神の庇護にあずかれるらしい。途中で飽きてしまった私はちらっと顔を上げ、斜め前にいる睡蓮の横顔を見つめた。彼女も頭を下げてはいるが、なぜか首をやや斜めに傾けている。自然と、私と睡蓮の視線がぶつかった。私には予期せぬ出来事だったが、彼女にはそうでもなかったらしい。その唇がかすかに動き、あとで、という形に動くのが分かった。
 私は慌てて反対側を向いた。卒業式の時に私一人だけひっきりなしに頭が動いていたと父にたしなめられたことがあるが、三つ子の魂百まで、私は死ぬまでお行儀良くしてはいられないらしい。今度は従兄弟の紫苑と目が合ってしまった。しかし、彼には私と同じ血は流れていないようだ。白衣の襟からすっとのびた首筋は二月だというのにうっすら陽にやけ、その色が耳の後ろまで広がっている。秀でた鼻梁から続くあごの線は美しく、その鋭さは黒々としたまつ毛に縁取られた切れ長な瞳にも通っている。しかし、彼の瞳はむしろあどけないくらいの優美さをたたえ、見る者をどこか不思議な気分に誘う。そういうところは従姉弟だけあって菫と似ている。彼は言葉少なで訥々と語り、声は深く、低く、その音律は降り始めた雨が屋根をたたく調子に似ている。彼と向き合っていると、どこか静かな場所で物思いにふけっているような、遠い昔のことを思い出しているような気分になる。おかげで私は睡蓮にかき立てられた熱を冷まされ、落ち着いた気分で神主の独唱に耐えることができた。この後しばらくは祝詞や榊舞が続くらしい。しかし、七座の神事も後半になると猿田彦が登場し、舞処狭しと踊り出してくれることだろう。
 皆が散らばるのを合図に私は睡蓮の袖を引いた。荒神舞まで彼女の出番はないと知ってのことだ。しかし、彼女は私を真正面からきっと見すえた。
「どうされたのです?」
「貴方にききたいことがあるの」
 私は袂に手を入れた。しかし、そこに椿の模様の封筒はなかった。もしかしたら、食事の支度中に落としてしまったのだろうか? 私は慌てて自分の足下を見回した。
 睡蓮は私の耳元に唇を寄せてそっとささやいた。
「今は人目があります。あとで、と言ったでしょう」
「私、大切なものを……」
 すると、睡蓮は手品師のように封筒を差し出してみせた。
「これは私が預かっておきます。貴方は危なっかしくて仕方ないから」
「でも、それは」
「古い神様ですね」と言って睡蓮は笑った。「貴方の中に住まう……古い古い神様」
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