第42話

文字数 2,381文字

「天ぷら屋でも話したが」と言って碧海は紅茶をすすった。「俺はあと数年稼いだらしばらく黒杜へ帰るつもりだ」
「睡蓮の予言を鵜呑みにするの?」
 碧海は諾とも否とも言いかねる様子で、ほうっと自分の絵画を眺めていた。その荒れ狂う色彩の渦を何と呼んだらよいのか分からない。そもそも、なぜこの色の奔逸が「消えた女」なのかも……あるいは、これは碧海が出会った幽霊でもなく、私の母でもなく、桜という個人を超えたある不可知的な存在なのかもしれない。彼女は碧海の心の奥深く、あの黒杜の洞窟のように薄暗く、湿った穴倉に棲息しているのだろう。
「お前も来ないか」
 私は顔を上げて碧海を見つめた。彼の横顔は峭刻として、その絵画への情熱が嘘偽りのないものであることを物語っている。しかし、寝乱れた黒髪や、充血した瞳、長く太いまつ毛が頬に落とす影はどこか淫猥でもあった。
「分家とはいえ、元は大庄屋の本家の屋敷だった建物だ。造作が悪かろうはずはない。土間は広いし、あの蔵をちょっと改良すれば採光の良い仕事場になるだろう。少々狭苦しいが、俺はああいう隠し部屋じみたところが好きなんだ。庭を耕せばさつまいもや葱も作れる。絵画を売れば米や味噌くらい買えるだろう。よしんば、あの託宣が黒杜だけでなく、もっと大きな荒廃を告げていたとして……お前がいればなおさら顔が利く」
「私はあの地で何を?」
「好きなことをするがいいさ」と碧海は笑った。「畑仕事に精を出すもよし。好きな翻訳もできるだろう」
「でも、翻訳の才能は……」
「兄貴に手伝ってもらったなんて嘘だろう? あれは徹頭徹尾お前の文体だ。そう、何なら翻訳じゃなく、いっそお前自身の文章を書いたらどうだ。国際連盟も脱退したし、いつ洋書が手に入らなくなるともかぎらん。男爵家の令嬢が書いたものなら箔がつく。貧しい主婦や女給たちが涎を垂らして読むだろう」
「さっきからお金や食べ物のことばかり。それでよく芸術を語れるね」
「貧乏画家だからこそ利に聡いんだ。金のない苦しみを知ってるからな」
「貧乏画家がこんな立派な家に?」
「からくりを知ればお前も呆れるさ。これはさる洋画家が仕事場という名目で建てた愛人用の屋敷でね。ところが、正妻に告げ口した奴がいる。かといって、父君から留学費を出してもらった手前、奥さんをおいそれと捨てるわけにもいかない。そこで将来性のある若手画家に貸し与えるべく建てた家……つまり、慈善事業の一環というお体裁になったんだ」
「それで住んでいるのは一人きり?」
「もう一人いたが、先月梁に首を吊って死んだ。遺書には自分には芸術の才能がないから、せめて自分が芸術作品になるとあったよ」
「壮絶だね」
「そのうえ滑稽だ。金もなく、頼りにする者もなく、狡猾にさえなれない人間の末路だ。人間は心根の優しい者を助けたりしない。その優しさは伝染する弱さだと知ってるからな。なけなしの優しさをはたいた者はある日ふと気づくんだ。この犠牲に何の意味があったんだろう? その先に待つのがあの絞首台ってわけだ」
 碧海の指は天窓のそばにある焦げ茶色の梁から、つうっと滑って画架へ落ちた。
「私は滑稽だとは思わない」
「俺は自分の考えをお前に強要したりしない。ただ、生き残るには狡猾になる必要もあるという現実を述べたまでだ」
「狡猾」私は大きな飴玉を舐るようにくり返した。「確かに、貴方には狡猾なところがある」
 私は巾着を開いて一通の手紙を取り出し、それを絵の具まみれの机にのせた。碧海は無言のまま手をのばし、その手紙を読んだ。
「これの何が問題なんだ?」
「何もかも」と私は微笑んだ。「菫のスケッチブックを見たの。そこに記された字と、その手紙の字にはたくさんの共通点がある。読みやすさより見た目のバランスを重視してしまう絵心が」
「なるほど」碧海は手紙を机に放った。「それで戦闘態勢を整えてご出陣ってわけか」
「誤魔化さないで教えて。どうして、こんなことを? ほとんど会ったこともない従姉妹のために菫がこうまでするとは思えない」
「従姉妹じゃない」
「知ってる」
「そうか」碧海は唇の端をゆがめて笑った。「紫苑の奴だな」
「問題はそんなことじゃない。どうして……」
「本当は分かってるんだろう?」碧海はゆっくりとソファから立ち上がった。「さっき自分で言ったじゃないか。俺には狡猾なところがあるって。だが、俺に言わせれば狡猾なのは黒杜の連中の方だ。俺はある意味本家の長男に生まれながら……生まれると同時にその資格を剥奪された。俺は婿養子になって分家を継いだ父と、その後妻になった母との間に生まれたんじゃなく、母と……」
 碧海はぎゅうっとまぶたを閉じ、肩で息をついてから続けた。
「母とその実の兄の間に生まれた。俺の本当の親父はお前の叔父だよ。それで生まれてすぐ里子に出された」
 私は無言で碧海を見つめた。乾いた唇の間から白い歯がのぞき、それが唾液で砂浜の石英のように光っている。
「菫は全て知っていた。知りながら、俺のことを愛してたんだ。妹としてか、女としてか分からない。無論俺にとっても菫は大切だった。誰も、何も言えないあの狭苦しい村で、彼女だけが胸襟を開いて話せる存在だったから。いや、話さなくても十分に通じ合えたんだ。だが、彼女の全てを受け入れたわけじゃない。彼女は黒杜の生き霊……御子神になるべくして生まれついた存在だった。夏は湿気がたまり、冬は颪に苛まれるあの黒杜の地同様、彼女には変に息苦しいところがあった。それで俺は一言、そんなに俺が大事ならその証拠を見せろ、と。それだけで十分だった」
「どういうこと?」
 碧海は酔ったような足取りで私と向き合い、熱いてのひらで頬に触れた。
「お前は全部分かってるんだ。それでいながら見逃した。あえて、見過ごしたんだ。お前も俺と同じ……自分が可愛くて仕方のない人間なんだ」
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