第44話

文字数 2,250文字

 ノックの音にドアを開くと、思いがけないほど大きな包みが目の前をふさいでいた。私はそれを受け取ろうとしたが、お嬢様には無理です、と書生は笑ってその大荷物を室内へ運び入れてくれた。クラフト紙に包まれた未知の物体は、モザイクタイルの貼られたマントルピースと同じくらいの大きさだった。
 書生が部屋を出てゆくと、私は息をついて開封作業に取りかかった。といっても、クラフト紙を適当に破いただけだ。やがて、斜めに千切れた紙の間から見覚えのある瞳がこちらを見つめ返してきた。
 鏡で見たことのある光景……しかし、顔を寄せてもその瞳は大きくならず、鳶色の虹彩の模様や白い光の粒が見えるばかりだ。輪郭そのものはかえって曖昧になってしまう。それでも、クラフト紙が音を立てるたびに紅を塗った唇や、幾何学模様の帯などが姿を現してゆく。
 モデルになったことも、スケッチをする姿を見た覚えもないのに、碧海はいつのまにこんな絵を描いたのだろう? それとも、まるでカメラのシャッターのように、彼の瞳孔が開いたり縮んだりするたびに私自身のある部分がぼやけたり、はっきりしたりするのだろうか?
 菫色の羽織と梅模様の着物をまとった私がこちらを向いて微笑んでいる。確か山神祭りの時の服装だ。それでいて、なぜか季節が合わないはずの薔薇を一輪手にしている。紙のように真っ白なフラウ・カール・ドルシュキ……碧海の瞳には、私はこんなふうに映っているのだろうか? 桃色の唇がちょっとだけほころんでいるのは、吹きだすのをこらえているようにも、悪戯を思いついたばかりというふうにも見える。何も知らず、それでいながら自分は全てを知った気でいる無邪気な子ども……。
 私はドアを開くと、階段を勢いよく駆け下り、蓮沼に命じて世田谷にある碧海の家へ向かわせた。
 急斜面の赤い屋根に白い柵。御伽噺の文化住宅。しかし、ドアには鍵がかかり、二階の窓もぼうっとした闇を映すばかりだった。心なしか、庭のスダシイまで陰気に見える。しばらくすると、蓮沼が車を下りて私に近づいてきた。
「お留守でしょうか?」
「引っ越したんでしょう」私は窓を仰いだまま答えた。「二階の窓にかかっていたカーテンがなくなっているから。碧海は光線にうるさくて、あの青い唐草模様のカーテンじゃなきゃ駄目なの」
 蓮沼は私の言葉を確かめるように視線を上げ、片側だけ陽にやけた首筋を手袋をはめた手でさすった。
「いずれお手紙が届くでしょう」
「そうね」私はクライスラーの方を振り返った。「銀座へやってちょうだい。行方を知ってる人がいるかもしれない。ついでに松屋で買い物もしたいし」
「承知いたしました」
 私は心持ち体を左に預け、車窓を滑ってゆく景色を眺めた。鋭角な街灯の間に植えられた柳はさわさわと揺れ、同じ風が流水模様の銘仙の袖を膨らませる。資生堂のショーウィンドーの前を通り過ぎ、ネオルネッサンス様式の服部時計店と、砂色の三越の間を抜けようとしたところでふと胸が痛むのを感じた。
 巴合戦でもした後のように鼓動が高まっている。私は左胸を押さえ、再び車窓の向こうへ視線を移した。
 新橋から銀座八丁目へ来て、資生堂の辺りで何かを目にした気がする。そう、鳥打帽をかぶった青年が走りながら角を左へ折れていった……その後で制服姿の巡査が同じ角を足早に曲がった。
「蓮沼、車を停めて」
「しかし、先に松屋へ寄るなら」
「いいから、早く!」
 クライスラーが完全に停車する前に私はドアを開けて飛び出していた。それから、左折する円タクとぶつかりそうになりながら晴海通りを突っ切り、路面電車と競うように駆けた。鳩居堂の前を通り過ぎ、ダットサントラックの停まったコロンバンの誘惑にも抗い、資生堂の半円形のショーウィンドーの前で立ち止まった。
 具合の良いことに、辺りをきょろきょろと見回している二人連れがいる。この辺りはお上りさんより銀ブラ通の人が好む通りだ。鼻と耳の形が似ているから親子かもしれない。
「何かあったんですか?」私は何気ないふうを装って話しかけた。「普段より騒がしいようですが」
 すると、大島紬の婦人が目も口もまん丸にして言った。
「まあ、何ですか。本当に恐ろしいこと。銀座も随分変わったけれど、こうまで変わってしまうとは思いもよりませんでしたよ。私の若いころはもっと風情のある町で」
「お母さん」耳出しに結った娘が口をはさんだ。「向こうの宝石店で盗難があったそうですよ。お巡りさんが追いかけていったの、本当に怖かったわ」
「柳は戻ってもあのころの風情はもう戻りませんよ。この辺りも銀座八丁目なんて呼ばれてますけど、日吉町や尾張町という由緒ある地名がちゃあんと」
 このまま話を聞いていたら歌舞伎がはねて人も増えそうなので、私はていねいに頭を下げてからおもむろに歩きだした。鳥打帽をかぶった青年は左へ曲がった後で、一瞬躊躇したように立ち止まり、それからまた左へ折れた気がする。
 しかし、この辺りなら私に分がないこともない。
 私の見間違いでなく……あの青年が睡蓮なら、追手を煙に巻く一番の方法は変装だ。そして、周囲に目くらましになる他の店があり、照明が暗く、半地下で迷路状にこみ入った店といえば……。
 私は地下へ続く洞穴の前で立ち止まると、呼吸を整え、襟と裾を軽く直してから色褪せた赤煉瓦の階段を下りていった。
 色ガラスのはめられたドアを開くと、乾いた鐘の音がカラカラと響き渡る。甘苦い珈琲の香りが、古代の巫女が薫く香のようにかすかに漂ってきた。
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