第19話

文字数 2,577文字

 崖にうがたれた階段を下りてゆくと、幾度も塗り直されたらしい土壁と、真新しい切り口を重ねた薪の山が見えた。どうやら、私は裏口にたどり着いてしまったらしい。褞袍を着こんだ小柄な老人が、歯の欠けた口を丸く開けたままこちらを見上げている。
 洲楽は汚れた手ぬぐいを外し、綿埃のような白髪の生えた頭を下げて挨拶をした。私も桐箱を抱えたままちょっと頭を下げた。
「さ、さ、こちらの方へ」
 洲楽はそう言って私を表玄関の方へ導いた。右脚には真新しい包帯が巻かれ、軽く引きずるようにしながら歩いている。屋敷の表には井戸があり、その周辺が葱やのらぼうの生えた小さな畑になっている。端の反った分厚い茅葺きの屋根は、まるで巨大な茶色い翼のようだった。
 岩粉の匂いのする土間の右手は馬屋を改造した蔵で、左手は囲炉裏のある板敷きの居間になっている。その奥にはお握りの形をしたかまどが並び、川の水を引いた竹樋から水がさぁさぁと柔らかな音を立てて落ちていた。
「私には過ぎた屋敷です」洲楽は長年煙に燻されて黒光りした梁を仰いだ。「お聞き及びかもしれませんが、元は分家の方々が住んでいらっしゃったんです。しかし、手狭になったとかで、それでも月に一度は火を焚かねば屋根や梁に虫がつきますし、誰もいない家はすぐに傷むと申しますから」
 私は洲楽に勧められるまま上り框に座って靴を脱いだ。彼の視線は溶いた糊のように桐箱に貼りついている。
「これ、菫に頼まれたの」
 すると、洲楽は大袈裟にええ、ええ、とうなずいてみせた。
「分かっております。へえ、それはもう」
「ところで、その脚はどうしたの?」
「へっ」洲楽はしゃっくりのような返事をし、まん丸な目で私をじいっと見つめた。「そこの井戸のところですっ転びまして、まことに歳はとりたくないものでございます」
「さっき、井戸のところに烏がいたけれど、あれに脅かされたの?」
「まことに仰る通りで」
「手応えがないのね」
「そう仰らず」洲楽は左頬に波紋のような痙攣を走らせた。「どうかご容赦を……決して悪気があったわけじゃございません」
「どういうこと?」
「意味も何も、言葉通りでございます。私は茉莉花様を心配するあまりあのような愚行に走ったわけでして、貴方様を傷つける意志は毛頭ございませんでした。それに罪の償いならもう立派に受けてございます」
「お前は太夫でないのに、呪いを知ってるの?」
 洲楽は黄ばんだ犬歯を見せて笑った。
「私のはただの子ども騙し……見様見真似でございまして、あの烏めに貴方様の無事を確かめさせたかっただけでございます。それが鮮やかな返り討ちに遭いまして、へえ、慣れぬことには手を出さず、己の仕事に精進いたすべきでございました」
「お前に探偵を頼んだのは誰?」
「それはご勘弁を」と洲楽は笑ったが、その視線はわずかに蔵の方へ動いた。「これこの通り、しっかり懲らしめられたのでございますから」
 囲炉裏の火は時々バチッと音を立てて爆ぜ、体を芯から温めてくれる。私はその艶々した縁に湯呑みを置くと、奇妙としか表現しようのない洲楽の仕事場を今更のように眺め回した。
 梁に結えられた紐に、関節の部分でもぎ取られた手脚がぶら下がっている。もちろん、これは人形のものだが、炎に照らされた胡粉の肌はややもすると本物の人肌よりも艶かしく見える。この人体の森の奥には棚があり、片方だけガラスの目が入った人形の頭やら、粘土の塊、丸まった設計図などが並んでいる……その合間に光るのは木屑のついた鑿や金槌で、こちらは神楽面を彫るための道具らしい。囲炉裏の脇にはちょっと背の高いまな板のようなものが置かれ、削りかけのお面が荒い素地を見せたまま放置されている。
 洲楽はお茶を一口飲んで笑うと、桐箱の紐をそっとほどき、恭しく一礼してから蓋を開けた。そして、赤子を抱くような手つきで神楽面を取り出した。
 それは人形の森で見るにふさわしい、ひどく謎めいた神楽面だった。おかめでも天狗でも鬼でもない。そもそも、顔と呼べるものが存在しないのだ。
 洲楽は愛おしむようにその神楽面に彫られた、いや、お面そのものを構成している小腸のように入り組んだ溝に触れた。実際、顔中に迷路文がうがたれているだけで、あとは目と鼻と口の穴だけ。およそ特徴と呼べるものはない。
「一体、それは何のお面?」
「不思議な面でございますなぁ」と、洲楽は他人ごとのように答えた。
 それから、洲楽はその神楽面を彫りかけの自分の面と並べた。彼のお面はまだこの世に生まれようとして生まれ出ない、いわば胎児の状態だったが、それでも左右に裂けた唇や分厚いまぶたの造形は十分な凄みを持っていた。
「ねえ、教えてちょうだい」
 そう言い募ると、洲楽は皮の厚い、先の丸まった指でお面の木屑を払った。
「鬼の面でございますよ」
「分かってるわ。そうじゃなくて、私が持ってきた方」
「古い、古い神様ですよ」洲楽は意外にも菫と同じことを口にした。「鬼にもいろんな意味があります。ご存知ですか? 鬼はさまよう人間の魂魄でもあるんです。ですから、ええ……こんな迷路文で表されるのかもしれませんし、あるいは」
「あるいは?」
「美しい女性かもしれません」
「陳腐ね」
「へぇ」
「結局、貴方にも分からないのでしょう?」
 洲楽はまた黄ばんだ歯を見せて笑った。
「そうかもしれません。私にはどうしても分からないでいるのです。菫様がなぜあのようなものに惹かれるのか……」
「あのような者って?」
「鬼ですよ」洲楽は隈取の浮かぶ面を見つめ、聞き取れないほどの小声で言った。「恐ろしい……とても美しい鬼です。あの鬼は菫様の心に食いこんで、いずれ内側から食い破ってしまうでしょう」
「お前は何を言うの?」
「今にお分かりになります。ええ、私にこの神楽面を届けてくださったのは、ほかでもない、貴方様なのですから」
 私は洲楽を見つめた。もしかしたら、にらんでいたのかもしれない。数十秒後、私は彼の表情が緩んだのをきっかけに帯の中から金時計を取り出した。
「探偵ごっこが得意なら、私も頼めるかしら?」
「へえ?」
「ある人を捜してほしいの。この黒杜の地のどこかにいる……そんな気がして」
 洲楽は恵比寿面のような表情を浮かべると、またちらっと蔵の方を見て笑った。
「お安い御用で。ええ、その御相手が太夫筋の方でないのなら」
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