第23話

文字数 1,707文字

 緋色の袴はトン、トンと小気味良く馴染みの階段を上ってゆく。菫のその足音は何かを伝えていたはずなのに、私はただ真新しい足袋と袴の間からのぞく細い足首を見上げるばかりだった。
 菫は自分の部屋に入ると、後ろ手でドアをそっと閉め、壁にかけられた例の暗い水面の絵を見上げた。自然と、私の視線もそれを追う形になった。
「常世の世界はどこにあると思う?」
 かすかに震える声で菫はそうきいた。私は何か答えたかったが、なぜか重苦しいものが押し寄せて気管を圧迫していた。
「遠い海の果てに浮かぶ島? それとも、山の奥にある洞窟?」
「案外、すぐそばにあるのかも」私はようやく口を開いた。「求肥みたいに薄い皮一枚奥に。ほら、時々餡が透けて見えるでしょう? そんなふうにあっち側がのぞくこともあるってこと」
「あちらからこちらが見えると思う?」
「それは」私は言いよどんだ。「どうかしたの?」
「何でもない」菫は息をついて言った。「少し疲れただけ」
「今日はこれでおしまいなんでしょう? 着替えて休んだら?」
 菫は無言で絵画に歩み寄ると、腕をすうっとのばして壁から外した。それから、絵を机の上にのせて裏側の板を外した……すると、黄ばんだ封筒が花びらのようにふわりと床に舞い落ちた。
 私はその手紙を拾い上げた。
「後で読んでちょうだい」菫は振り返りもせずに言った。「全てが終わったら……そう、神楽の終幕まで待って」
「誰の手紙?」
「読めばすぐに分かるわ。でも、これをずっと隠していたことを恨まないでほしいの。ほかにどうしようもなかったから……ようやく決心が着いたの」
「私のお母さんの手紙?」
 目の縁が赤らんだ瞳が私を捉えた。太夫の化粧のためばかりではない。菫の白眼は充血し、細い血管が何かの生き物のようにからみ合っている。
「約束する」私は手紙を胸元にしまった。「すぐそばに怪盗がいたとはね」
 ようやく菫の唇がほころび、紅花で彩られた唇の間から真珠質の歯がこぼれた。
 それから、菫は私の両手をぎゅっと握りしめた。まるで言葉にできないもの全てを温かなてのひらに語らせたがるように。彼女の潤んだ瞳は私を見つめ、まつ毛の影がまるで死にかけの蛾のように頬の上で震えていた。
「一体どうしたの?」
 菫は引きつった笑みを浮かべ、首を軽く横に振った。
「本当に疲れただけ……このまま休むから、お母さんにそう伝えておいてちょうだい」
 分かった、と言って去りかけた私を菫は引き止めた。しかし、その唇は半ば開かれたまま何の言葉も語ろうとしない。私は中途半端な姿勢のまま菫を茫然と見た。やがて、彼女は微笑んで言った。
「何でもない……おやすみなさい」
「おやすみ」
 ドアのところで振り返ると、菫の笑みはすでに消え去り、その残照がわずかに唇を染めているだけだった。反対に、窓辺のビスク・ドールの唇は変わらぬ微笑をたたえ、小首を傾げたまま面白そうに私を見つめていた。
 私も自分の部屋にいったん引き返し、母の手紙を落とさないように旅行鞄の奥にしまった。念のため鞄の底敷きを外してその下に忍ばせ、文庫本やら風呂敷やらを重ねておいた。
 この後は日本酒と甘酒と串団子が振る舞われ、それでいったん散会ということになっている。夜通しで行われる明日の本神楽に備え、皆英気を養うために一眠りするのだろう。
 部屋を出ようとした瞬間、ふと窓の方でカサリと滑るような音がした。
 私はカーテンを開き、そろそろとドアを開けた。冷たい夜風が頬をつんと張らせる。屋根の上に、何か白いものが落ちている。しかし、今度はヤモリの死骸ではないようだ。
 私は手をのばし、丸められた白い紙を拾い、再び窓を閉めた。
 紙礫の中には錘にした小石が入っている。皺くちゃの紙を広げると、どこか見覚えのある文字でこう記されていた。

 「甘酒飲ムベカラズ」

 私は普段アルコールを口にしないが、かといって甘酒が飲めないほど弱いつもりもない。しかし、この手紙の主は何らかの危険をそこに感じているらしい。
 手紙の末尾には、署名のつもりか「烏」と記されている。
 私は自分の唇に笑みが浮かぶのを感じた。
 ほんの弾みで雇った探偵は、想像以上に働いてくれたらしい。
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