第18話

文字数 2,227文字

 白い漆喰の海鼠壁。スレート葺きの屋根に頑丈そうな鉄の扉。
 それは珍しくも何ともない、至極ありふれた蔵だったが、なぜか私の目には要塞、もしくは誰かを閉じこめておくための牢獄に見えた。もしかしたら、自分の現状がそんな想像を呼び起こしたのかもしれない。被害妄想に憑かれてはいけない。私は自分を鼓舞するように独りごちた。
 叔母は鶴を思わせる甲高い声に細い首、細い腕を持っている。今もその青緑色の静脈が透けた手首を陽射しにさらしながら蔵の鍵を外している。祖父と叔父と紫苑は稽古で神楽殿のある黒杜神社に集まっているという。ヒヨドリの鳴き声に似た音が響き、鉄の縛めがほどかれてゆく。長い眠りから覚めた野生動物が、かすかに身をもたげるような気配があった。
 当然ながら蔵の内部は薄暗く、高い窓から斜めに陽が差しこんでいる。叔母が吊りランプを壁にかけると、織物のように束をなした蜘蛛の巣がちらちらと光って見えた。
「こっちへ」
 やはりランプを手にした菫が私を階上へ導こうとする。蔵の内部は八人は寝泊まりできそうなほど広々としていた。右側には祖父のものらしい古びた書物が積まれ、反対側の棚にはほこりをかぶった骨董類や桐箱がある。山吹色や紫色の紐で厳重に縛られた箱には墨字で銘が記されている。私はその一つ一つを開けてみたかったが、菫が梯子階段の途中で待っていた。
「菫」と叔母が声をかけた。「衣装とお面の方をお願い。私は先に刀や鎧を運ばせますから」
 梯子階段は私たちの重みを受け入れてギッ、ギッとたわんだ。階段の踏み板が抜けるのをつい想像してしまったが、階段は古いなりに頑丈で、菫が頭上の扉を開くころにはそのきしみを楽しめるほどになっていた。
 蔵の二階は幼馴染の桃香の家の屋根裏を思い出させた。さんざん遊んだ後に私たちは死ぬほど怒られたが、当時の私には「秘密の場所」がぜひとも必要だったらしい。今思えば、秘密にしなければならないことなんて一つもなかったのに……秘密が増えた今の方が、かえって逃げ場を失ってしまった気がする。
 遥か昔に滅びてしまった海竜の骨を思わせる梁が縦横無尽に走り、明かり取りの窓から差す光が白いほこりを浮かび上がらせている。神楽の衣装や能面は湿気を避けるために階上に保管されているらしい。壁には棚が設けられ、正方形や長方形の桐箱が整然と並んでいる。菫は吊りランプを壁の杭にかけると、ふうっと息をついて手近な箱に触れた。箱というより、可愛がっている猫をなでるような手つきだった。
「どの箱を下ろせばいいの?」
 菫はここで一生暮らしたいと言われたように目を見開き、深いため息をついた。
「箱書きで分かるわ。大きなものは後で下ろしてもらうから……私たちは能面だけ」
「じゃあ、小さな箱ね」
「そう」と言って菫は桐箱を抱えたが、そのまま床に座りこんでしまった。
「どうかした?」
「いいえ」菫は唇に曖昧な笑みを浮かべた。「子どものころの神楽を思い出しただけ」
 私は無言で菫を見つめた。すると、彼女はまるで弁解するように言った。
「神楽は毎年あるけど、式年神楽は七年に一度だから」
「何が違うの?」
「表向きは何も変わらないわ。神迎え、七座の神事、荒神遊び……それから、神殿移り、能舞、王子舞、神送り。でも、式年神楽の本舞は黒杜神社じゃないの」
「それじゃ、どこへ?」
「すぐに分かるわ」
 菫の瞳は暗い夜の湖面のようにたぷたぷと波打っている。彼女は視線を避けるように目を伏せ、代わりに桐箱を差し出した。
「これを神楽面彫師の洲楽の元へ届けてくれない?」
「修理が必要なの?」
 菫はそれには答えずただ笑みを深めた。
「とにかく、夕方にでも持っていってほしいの。私には神楽のお稽古があるから。これを見せればすぐに分かるわ」
 古い桐箱はうっすらとほこりをまとい、朱色の紐で封じられている。銘のようなものは何も記されていない。
 私は桐箱をかたわらに置き、おもむろに懐から椿の柄の封筒を取り出した。
 それから、母が残した切り紙の神様を菫に見せた。
「何の神様か分かる?」
「これをどこで?」菫は瞳を潤ませ、口辺に淡い笑みをにじませた。「この切り紙は」
「悪いけど、それは教えられない。でも、私には何の神様か知る必要があるの」
 菫はつと指をのばし、切り紙の、ちょうどクラゲの触手のような部分をなでた。
「古い、古い神様ね。私には名前が分からないわ。まだ全てを教えられたわけじゃないから。でも、ああ……本当に古い神様。黒杜の地におわします、赤松の樹皮のように鱗がささくれ立った水神様より……」
「その神様が分かる人はいる?」
「睡蓮なら、あるいは」
「黒杜の巫女?」
「私たちは皆黒杜の巫女よ」と菫は笑った。「ねえ、運命って本当にあるのかもしれない。睡蓮が姿を現し、式年神楽の年に貴方がこの地を訪れ、私に古い神様を見せてくれた」
「どういう意味?」
「私と貴方は鏡のように似ていると思わない? 私、一目見て分かった。貴方が私の片割れ……昔に引き裂かれてしまったその半分だって」
「でも、私たち双子じゃないでしょ」
「魂の話よ」
 菫はゆっくり立ち上がると、龍の形に彫り抜かれた明かり取りの小窓を見やり、ふうっと息をついた。
「そろそろ仕事を始めないと。お母様がまた癇癪を起こしたら大変」
「ええ」私は切り紙を封筒にしまって笑った。「本当に」
 海竜の肋骨が私たちを優しく包みこんでいる。私は桐箱の並んだ棚を見つめ、潔く運搬係に徹することにした。
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