海蛍 21

文字数 3,090文字

 宿に戻って会話はなかった。互いの気持ちを知った今、もう言葉など必要ではなかったのだ。時間をずらして風呂に入り、食事を前にした頃にはどちらともなくぎこちなく他愛もない会話が再開された。昨夜同様に女将たちがやって来て膳を下げ、布団を敷き始めた様子に薫は胸の中が熱くなる感覚がした。自分の一方的な想いだったから平常心を保てたというのに、日向の自分への想いを知ってしまった今、自分がどこまで冷静にいられるのかがわからない。奥に並べられた布団とふたりを残し、女将たちは挨拶をして去った。耳鳴りのするような静寂だけが部屋を支配している。並べられた布団を前に身体が疼く。
「明日は早い。もう横になった方がいいだろう」
静寂を破ったのはそう言いながら布団に入った、日向のひとことだった。
「そうですね、明日、戻るんですよね。自分たちは……」
部屋を暗くして薫は少し遅れて床に着いた。


 前夜、日向の電話の内容を聴いてしまった薫。
震えながら後ずさりする背に人の気配を感じ振り返った。そこにいたのは女将だった。
「この宿は上位階級の将校さん方が出撃命令を受けた際に利用できる……最期のおもてなしをする宿なんですよ」
女将の言葉に薫は言葉を失った。
「日向様は後日、駆逐艦の艦長として出撃がお決まりになられたそうで、命令を受けてすぐに私共の宿へ御予約をされました。こんな時、御予約を入れられる際にはおひとりの方もいらっしゃれば、奥様やご家族をお呼びして過ごされる方、ご両親と共に過ごされる方など皆さん様々ですが、日向様からは橋本様とご一緒にとの連絡を受けました。苦労した若者なので生まれて来て良かったと言えるようなもてなしをお願いしたいと……」
女将の言葉が震えながら途切れる。
「以前、お身内のない同期の将校の方と日向様がこちらへいらっしゃって大層ここを気に入ってくださり、ご自分が出撃される時にも自分の大切な方を連れて来たいと。私共としてはどなたも来ては欲しくはないんです……でも、電話で申し込みをされた日向様は虚勢などではなく、本当に穏やかに嬉しそうに申し込みをされました。到着したら甘い菓子を用意してやって欲しいやら、翌日には釣りに連れて行きたいから道具と甘い卵焼きの入った弁当の用意もお願いしますともう、まるでご自分のご家族を気遣うようなお申し出ばかりをされて。そして、ご自分の出撃の件は絶対に橋本様には言わないで欲しいともお願いされました」
最期の時を自分と過ごすと選択してくれた、日向を思うと泣けてきた。すべてを胸に秘めて自分を笑顔にすることだけを考えてくれた日向への想いはあふれ出す。
「私がこのことを知ったとは、どうか日向大佐には内密にしてください。小作人の息子として苦労して育った私に対して、こんなにもの温情を与えてくださった大佐の恩に報いるためにも、私は笑顔でここで過ごします。そして、日向大佐と共に艦に乗り運命を共に致します」
この言葉に一瞬、女将の表情が変わったことに薫は気づいた。
「あの、何か……」
そう問いかけた時、女将は小声で囁いた。
「日向様のお電話が終わりそうですよ。私は何も見ませんでしたし聞きませんでした。だから橋本様とも何もお話はしておりません。さ、早くお部屋へ戻られた方が」
女将の言葉に薫はハッとして日向の声に耳を立てる。確かに相手に対して電話を終える挨拶をしている。薫は無言で女将に深く一礼すると急ぎ部屋へ戻った。僅かな後、電話を終えた日向は女将と出くわしたが女将は薫との約束を守り日向へは何も言わずに会釈し通り過ぎた。部屋へ戻った薫は冷めてしまったお猪口の酒を一気に飲み干すと、大きく深呼吸をした。もう、余計なことは考えまい。日向が自分のために与えてくれたこの時を心から楽しもうと薫は決心をした。こうして日向は薫に、薫もまた日向に対して秘密を持ったまま最後の夜を迎えた。


 昨夜、あんなにもうるさかった風はなく、二人が床に入ってからは互いの息遣いが際立って聴こえてくる。自分は日向が好きだ。そして、日向も自分を好きでいてくれた事実、それだけで明日、散ってもいいと思えた。日向と一緒なら何も怖くはない。この人に短いであろう自分の命を預けることに何の悔いもない。幸せに満たされる心。闇の中で薫は思わず日向のいる方へ手を差し伸べた。触れる気はなかった。ただ、あと僅かで触れられる距離に日向がいてくれることが嬉しかった。闇を掴むように遠慮がちに、そして悟られないように差し出した手を不意に力強く掴まれた。
「!?」
それは少し大きめの日向の手だった。いつもは自分ばかり一方的に熱を帯びていると思っていたが、この時の日向の手は、薫の何倍も熱を帯びていた。
「誓う。何もしたりはしない。お願いだから今夜はこのまま、こうしていてくれないか……」
掴まれた手から日向の鼓動を感じる。確かに日向を感じる。だがそれもすぐに無くなった。気付けば日向の鼓動に合わせ、自分も鼓動を刻んでいた。
どちらともなく指を絡ませ、手をつなぐ。
思う相手のいる幸せ。共に刻む鼓動。日向と心がひとつになれた初めての夜。
「私は幸せ者です。この二日間を経験するために今までの苦労が必要だったのならば、私はこの人生に満足しています。あなたにすべてを委ね、最期まで着いて行きます」
薫の言葉に日向は何も言わず、握っていた手の力を更に強めた。

 そして朝、靄のかかる玄関先で女将や仲居たちが玄関に出揃う。
「お世話になりました。心からのもてなしに感謝申し上げます」
日向はそう言うと女将たちに頭を下げた。薫も日向の後ろで万感の思いを込めて頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
女将はそういうと、仲居たちと共に深く頭を下げた。日向たちが見えなくなるまでずっと。
この宿を後にする者への『いってらっしゃいませ』の言葉の意味が、今なら薫にも理解できた。薫は何度も立ち止まり女将たちに頭を下げながら日向と共に駅に向かった。もう、この瞬間から気安く日向に触れることも話し掛けることも出来ない。全てが日常に戻るのだ。しかし、自分には日向から握られた手の温もりが鮮明に残っている。もう、何が起きても怖くも動じることもない。欲しかった日向の心を自分は確かに掴めたのだ。薫の表情は晴れ晴れとしていた。


 兵舎へ戻った薫は、食堂で騒ぐ仲間らを見て足を向けた。
「何かあったのか?」
背を向けていた同期の佐伯に声をかけると、佐伯は壁に貼られた紙を指さした。
「いよいよ、俺にも出撃命令が出た。明後日の駆逐艦で艦長は日向大佐だ。あの大佐の下でなら自分は悔いなく散れる。先に行って待ってるからな、橋本」
佐伯の言葉に悪寒が走る。群れる人をかき分け、貼り出された紙の前に躍り出る薫。そこには日向が艦長として明後日、南方へ出撃する駆逐艦の搭乗員名簿があった。以下、百数十人の名の中には自分を辱めた上官の名が並んでいたが、何度それを見返してもそこに自分の名は無かった。
『……連中を許せとは言わない。だが、安心して欲しい。俺が責任を持って二度と連中にあんなマネはさせないと誓う』
自分を助け出した際の日向の言葉が胸を過る。あの言葉は決してその場しのぎのものではなかった。日向はあの時点で自分の出撃を知っていて、薫を護るために連中を乗艦させることを決意していたのだ。薫を生かし、薫を脅かすであろう存在となり得る者たちを引き連れ、死出の旅へ向かう選択をした日向の思いを知った薫はただただ呆然としその場へ立ち尽くす。
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