海蛍 25

文字数 3,210文字

「艦長!しっかり、気を確かにっ!!」
薫は叫びながら日向を揺さぶる。左腕、下腹部、両足と何発もの銃弾を身体で受けた日向は、痛みと出血で意識が朦朧としているらしく、唇は震えるが即座に言葉が出ない。周囲に流れてきた紐を手繰り寄せて腕と足の止血を試みる。しかし、出血は止まる気配がない。下腹部に手を当てて止血をしようとした時、その手を日向が制した。
「お前の衛生兵としての任務は終了だ、ありがとう……」
泣きそうな薫に日向は痛々しい笑顔を向ける。
「私の任務に終わりはありませんっ!一人でも兵士が生きている限りは!」
波に薫の涙が散っていく。日向はその涙を手で拭ってやる。
「衛生兵としての仕事は終了だが……ここから先は、俺の我が儘をきいて欲しい」
「何ですか。仰ってください。自分に出来ることなら何でも致します」
「お前の声を聴いていたいんだ。何でもいい……頼むから話をしてはくれないか?」


「あの日、宿で艦長が電話に出られていた時、この出撃の話を聴いてしまったんです。女将さんからあの宿は出撃命令が下された身分ある軍人が、家族など大切な人と最期の時を過ごす場所でもあることを……」

日は既に暮れて空にはこぼれ落ちそうな星が瞬いている。漆黒の波に揺られながら薫は思いつくまま話をする。
「そんな意味のある所へ連れていってもらえて私は幸せ者です。生まれて初めての釣り、楽しかったです。日向艦長とあんなに大きな魚を釣り上げたこと、忘れません。宿で出された和菓子。口が溶けてしまうかと思いました。世の中にあんなに美味しいものがあったなんて。あと甘い卵焼き。幸せでした。一緒に露天風呂に入ったことも大切な思い出です。あと……」
「どうした」
「……夕暮れに背負ってもらったこと」
「そうだったな……」
「自分は漱石の作品が好きでした」
はにかみながらやっと口にできた言葉に
「俺は四迷も随分と読んだものだ」
と日向が笑った。

「もう、私は海は遠慮します。日本に戻ったならばふたりで百姓でもしませんか?大地に足を着けて新しい人生を始めるんです。田畑を耕して……」
「俺は海外航路の船長の夢を諦めてはいないぞ」
「まずは身体を治すことが先決です。私が日向艦長がお元気になられるまで、精一杯お世話を致します。海は逃げません。元気になったら世界に飛び出しましょう」
「お前は医者になるんだ」
「もう、いいんです、医者は」
「夢を捨てるのか?」
「……」
自分の置かれている状況に救いがないことを悟った薫の胸に、日向の言葉が容赦なく突き刺さる。
「今、目の前にいる艦長をお助けすることも出来ずに医者なんて。私はもう……夢も希望もいらない。何も望みません。こうして苦しんでいるあなたを助けられれば他には何もいりません」
「俺は夢は捨ててはいないぞ。いいか、お前は必ず生き残る。生きて日本へ帰るんだ。そして、医者になる。謙虚に学び多くの友や先輩後輩に慕われながら、天寿を全うするんだ。そして、もしも次に生まれ変われるのならば……何処の国でも、どんなに離れた地で生を受けても、私は必ずお前を探し出す。そしてお前を娶る」
「それって……?」
「そこまで俺に言わせる気なのか」
日向は血の気の失せた笑みを浮かべた。と、その時だった。

「日向艦長、あ、あれを見てくださいっ!」

薫は水から動くことが困難になっている日向の顔を、そっとその方向へと向ける。そこには、闇の中に青白く発光した無数の小さな星が揺らめいていた。
「幻覚……?」
そう呟いた薫に日向は、その無数の光点を視界に捉えながら言った。
「あれは“海蛍”だ」
「海蛍ってたしか沿岸に生息しているはずで、こんな南洋になんて」
「艦の積み荷にこれがあったんだよ……」

 第二次世界大戦中に、日本軍はこの“海蛍”を軍事利用した実例がある。海蛍=ウミホタルを乾燥させ、これに水分を与えると、微弱な光を放つようになる。そこで、南方のジャングルで偵察を命じられた兵がウミホタルの乾燥粉を携え、これを行動中の足元に撒くことでかすかな光を放つ目印として使用された。日向の艦には偵察用に使われる予定であった、乾燥させた大量の海蛍が積み荷としてあった。艦が沈み壊れた箱から海水を吸った海蛍は満天の星をも霞んで見えるほどに海面を輝かせていた。この世のものとは思えぬ美しさにふたりはしばし言葉を失いその光点を見つめた。

「そろそろ、答えをくれないか、薫。いつか私に娶らせてくれることを……」
名を呼ばれ、日向の本気を改めて知る薫。
「はい。幾度生まれ変わっても、必ず私はあなたと共に生きることを誓います」
生まれてきて良かったと薫は思った。
「敏子さんと出会って、薫の話を聴かされるうちに私はいつしか会ったこともなかった薫のことが気になって仕方なかった。兵舎で初めて見かけた時、すぐにわかったよ。敏子さんに似て美しくて聡明そうで。最期に心から愛することのできる人と出会えた俺は幸せ者だ。さぁ、誓いの証を……」
日向はそう言うと薫の後頭部に手を差し出し自分の元へ抱きよせる。

「この世で最も尊く愛しい人に今、永遠を誓う……」

 日向の唇が薫の唇に重なる。海に放りだされ体温は下がり互いの唇は冷え切っていた。時折、跳ね上がる海水が口に入りこみ塩辛い味。それが、互いが待ちに待ったものだった。そして、離れまいと薫が日向に強くしがみ付いた時だった。日向は唇を重ねたまま薫の頸動脈に指を当てると、渾身の力を込めてそこを押した。気力も体力も消耗しきっていた薫は数秒で意識を無くした。

 廃材を背にして漂う薫の頬を日向は何度も何度も手で撫で続けた。自分に繋がっているロープに手をかけ解こうとするが、水を含んだロープは弱り切った日向が外すことのできないものになっていた。

「やはり無理か……」

 内ポケットから短剣を取りだす。鞘から引き抜かれた短剣は海蛍の光を受け蒼白く輝いている。ロープを切ろうと試みるが海水で膨張しているロープは刃を弾き返す。それをも想定していた日向はふっとため息を吐く。傍に漂っていたゴミを口に咥えると、日向は結ばれていた自らの腕を短剣で切り始める。激痛が走り咥えたゴミが口の中で砕ける。声を出せば薫が目覚めてしまう。それだけは避けなければならない。短剣は腕の肉を裂きながら向こう側へと突き出る。身体が冷えているのに、痛みで脂汗が滲み海水と混ざり目に入ってくる。既に大量の出血をした日向の身体には、短剣を突き刺して大きな血管を破っても出てくる血液も少なくなっていた。薫が気付かぬうちに、何とかロープを外さなければならない。自分はもう生きられる状況でもなく、撃たれなくとも何らかの手段で自分は艦と運命を共にしなければと日向の中では既に答えは出ていたのだ。このまま漂流を続けて自分が死んでも、薫はきっと屍となった自分の身体を離さず共に朽ちていくことを選ぶだろう。僅かでも薫にはまだ生きる望みがある。生き残った薫がいつしか自分のことを忘れ、他の誰かと共に生きてもいい。薫が笑顔で生きてくれるのならば、横に寄り添うのが自分でなくても構わない。意識が次第に薄らいでくる。急げ、未来のある薫のために……手にした短剣は、動くごとに日向の手首の肉を削ぎ落としていく。そして、肉を失った日向の手からロープが外れた。日向の手首を掴んでいたそのロープには日向の鮮血が染み込んでいた。

「さようなら、薫……」

 名残惜しそうに最後の頬ずりをし、ついに日向は繋いでいた薫との手を離した。波に流され次第に遠ざかる薫の姿を見ながら、ほどなくして日向は静かに自らの艦と部下の待つ深い深い海の底へと沈んで行った。

大日本帝国海軍大佐 日向総一郎 太平洋上にて戦死 享年38歳 昭和20年8月14日のできごとだった。
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