海蛍 38

文字数 2,719文字

「その薄汚ねぇ手をクロエから離せ。クロエは隣町の診療所へ運ぶ。白人の医者に診せる」
ジョージが薫の足元へ向けてトリガーを引く。狭い診察室に乾いた轟音と共に埃が舞い上がった。決して脅しなどではない。威嚇射撃はこの一発で終わりだろう。
ジョージの放つ二発目は、確実に自分の心臓を貫くだろうと薫は悟った。
しかし、薫も後へは引かなかった。
「私のことを憎んでくれてもいい。殺してもいい。でも、お願いだからこの子の治療だけはさせてくれっ。今なら、いや、今しか助かる見込みはないんだ。隣町に運んでなんていたらこの子は手遅れになってしまう!」
薫はジョージから目を逸らさず言う。
「いいか、クロエの親は俺だ。お前なんかに指図される筋合いはねぇんだ!」
脅かしの発砲にもたじろがない薫の姿に腹を立てたジョージは、ライフルを投げ捨てると薫に掴みかかった。
「頼む……頼むから治療をさせて…くれ。それが…すんだ、ら…私を、ころ、せ」
「このサル野郎がっ!!」
ジョージが拳で薫の頬を何度も殴りつける。薫は足を踏ん張り立ち続け、ジョージの容赦ない拳を受け続けた。
「わ、私は、医者だ!医者になるんだ。もう、誰も死ぬところなど見たくはないんだっ!!」
鼻血を滴らせながらも、薫は一歩も引かず叫ぶ。
「サルの分際で生意気言いやがって。てめぇ、ぶっ殺してやる!」
ジョージが投げ捨てたライフルを手にしようと振り返った時だった。
「ジョージ、もうあなたの言うことには私は従わない。あなたの言いなりにしていたらクロエは死ぬわ。クロエを見殺しにするくらいなら、私はあなたを今、ここで殺す」
ジョージが投げ捨てたライフルを震えながら手にしていたのは、ジョージの妻でありクロエの母であるヘレンだった。

「ヘレン、その銃を返すんだ」
薫の血に塗れた手を差し出すジョージ。
「いやよ……あなたに銃を渡せばクロエは助からない」
「お前はこのジャップにクロエを治療させようと言うのか?
俺はそんなこと、絶対に認めたりはしないからなっ!!」
「クロエの命が懸かっていても?」
「そうだ」
躊躇うことなく答えたジョージの語尾が消える間もなく、ヘレンが手にしたライフルが二度めの火を噴いた。
「うあぁぁっ!」
弾はジョージの左太腿を撃ち抜いた。ジョージは壁際まで飛ばされ低く唸り声を上げた。二発の銃声に町の住人が駆け付けて来た。
「一体、何があったんだ!?」
銃口をジョージに向けたまま、更に二発目の用意をするヘレンを目の当たりにした町民は、その光景に息を飲む。
「クロエが!クロエが破傷風に。隣町の診療所へ運ぶ時間がないの。
ここで、この診療所で直ぐに治療を開始しないと、クロエは死ぬのっ!」
ヘレンは目に涙を溜め叫んだ。
「でも、ジョージがここでは治療させないと言うの。私はクロエを見殺しにはしたくないっ!」
涙で揺らいでいたヘレンの瞳は次第に、兵士のように鋭くなってきた。
「私はどこの国の医師でも、誰でもいいの。クロエを助けてくれるのなら、それだけでいい。カオル、あなたに託せば本当にクロエは助かるの?」
ヘレンは薫に問いかけるが、目は片時もジョージからは放さない。
「私は……人を殺すために生まれて来たんじゃない。誰かを見殺しにするために、生き残った訳でもない。命を、命を救いたい。それだけなんです!」
焦りの中、薫は答える。

「あぁ、ヘレン……」
ふたりのやり取りを聞いていた町の女たちが逃げるように部屋から出ていく。
「なぁ、ヘレン。うちの馬を貸そう。あの馬なら隣町まで早く行ける。クロエも助かるかも知れない」
「助かるかも?いい、私はクロエの命でギャンブルなどする気はないの。
クロエを確実に助けたい、ただ、それだけなの」
「しかし、こんなジャップに任せるなんて、ジョージの気持ちも考えて……」
男たちはヘレンの顔色を伺いながら、距離を詰めていく。
「私を止めようとする者は、クロエを殺そうとするジョージと同罪。
私に近づけば、あなた方を殺して私もクロエと死ぬわ」

もう、薫にはどうすることもできない。ただ、成り行きを見守るしか術はない。
と、その時だった。
「ヘレン!私たちはアンタとクロエの味方だよ!!」
女の叫び声が部屋に響いた。
ヘレンが、薫が、ジョージが、そして駆け付けていた男たちが部屋の出入り口に目をやった。そこにはライフルを構えたアンナがいた。
「もう、男たちのゴタゴタにはウンザリよ。アンタたちが何を考えようがしようが、勝手にすりゃいい。けれども、私たちや子どもを巻き込むのはいい加減、やめにしてもらうわ。カオル、私たちは医師としてのあなたを援護するわ。男たちが少しでも何かをやらかそうとしたら、私たちが盾になってあなたとクロエを護る。さぁ、治療を開始して」
「わ、私たち!?」
男たちが一斉に周囲を見回す。ライフルを構えたアンナの背後、窓の外と家から銃を手にした女たちが銃口を部屋に向けていた。
「お、お前たち、一体何を……」
男たちは狼狽し言葉を失った。
「私たちは人種も肌の色もどうでもいいの。ただ、わが子を健やかに育てたい、思いはそれだけなのよ。もう、くだらない戦いに巻き込まれるのはごめんよ。アメリカ人も日本人でもない。私は一人の母親として母親として言うわ。カオルに存分に治療をさせてあげなさい。
逆らう者は母としての良心が、愚かなあなた方を即刻、この銃で裁くわ」
「ありがとう、アンナ……」
今更ながら、自分のしでかしたことの大きさを知り、ライフルを手に震えだすヘレン。
「カオルに治療をさせるわよ、ジョージ。どうしてもダメというなら、ここで今、あなたの命を確実に頂くわ。罪のないクロエを助けるために。それしか方法がないのなら私は同じ母として悪魔にも心を売る」
アンナの言葉にジョージは無言で俯き黙った。
「さぁ、他にカオルに治療をさせることに反対の者は?クロエを見殺しにしようって者はいない?」
更なるアンナの言葉に、集まっていた男たちも薫の治療に同意し、手伝うこととなった。

「お前、本当にクロエを救えるんだろうな……」
男たちに抱きかかえられながら、薫の横を通り過ぎるジョージが薫を睨みつけながら言った。
「私は日本の男です。責任逃れなどしません。もしも、クロエを助けられなかった時は、腹を切ります」

 無意味な争いを諫めるため、幼子の命を救うために女たちは銃を手にして立ち上がった。女に物を言わせなかった男たちも、母として立ちはだかった女たちに逆らうことはできなかった。

クロエに重くのしかかった死神と薫の戦いが始まった。
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