海蛍 41

文字数 2,163文字

ドン・ドン・ドン・ドン……

大きな音と振動で薫は目覚めた。
気怠い中で覚醒するうちに、苦しむクロエのことを思いだす。
そうだ、自分はクロエの意識を戻ったことを確認した後、そのまま……
「クロエ!クロエはっ!?」
慌てて跳ね起きたが背中の火傷が引き攣り、薫は思わず顔を顰めた。
目覚めたその部屋は、アランから与えられていた二階の自室。
薫はドアを壊すほどの勢いで開けると、すぐさま一階の診察室へと駆け下りた。
診察室に飛び込むが、そこにクロエの姿はなくすべてが綺麗に片付けられていた。


ドン・ドン・ドン・ドン……

音と振動が再び始まる。事情が分からぬまま、薫は外へ飛び出した。
表通りに面した診療所出入り口前には男女問わず人が群れ騒いでいる。
人々の視線は診療所の上に向いている。久々の日差しに慣れない目を細めながら、薫の視線も上を向く。
「お、ドクターがお目覚めだ。だから後でしなきゃドクターが起きちまうって言っただろう」
「素晴らしいことをするんだ。ドクターが起きるのを待ってなんていられるか!」
屋根の上にいる男と下に群れる者たちが、笑いながら掛け合いをする。
「おはよう、ドクター。さぁ、これを見てくれ」
人ごみの中かから足を引きずりながらジョージが進み出ると、あれを見ろと指をさす。
ゆっくりとジョージの指先に合わせて視線を上げる。
青空の下、視線の先にあったものを見るうちに、涙がこみ上げ視界が歪む。
もう一度、読もうとするが歪む文字を辿ることができない。
何度も何度も袖で涙を拭うが、涙は薫の頬を濡らし続ける。
視線の先。診療所出入り口の上にペンキで書かれたばかりの看板が取りつけられていた。

『Dr,マイヤーズ Dr,ハシモト診療所』

自分はまだ医師ではない。これから生涯をかけて学んでも学び足りることはないだろう。しかし、自国で叶わなかった夢が今、敵国と言われていたこのアメリカで叶おうとしている。クロエとのことが、町の住民から理解を得るきっかけになったのは明確だ。みんなも自分が衛生兵の地位しかなかったことは知っている。それでもみんなは自分を迎え入れてくれた……嬉しさで身体が熱くなる。
初めて得ることができた、安住の場。何があっても帰ることが許される自分の家。

「一人で困難に立ち向かってくれたそうだね、カオル」
その声に薫は身体を震わしながら振り向いた。

視線の先にいたのは、微笑むアラン。
「アラン!?あぁ、帰って来たんですか、帰って来て……」
少しやつれたアランが腕を広げる。更にやつれた薫はアランの胸に飛び込んだ。
「アラン、アラン……あ、クロエが。クロエを診ないと!クロエが大変なんです!!」
我に返った薫がアランの腕を掴み叫ぶ。
「大丈夫。帰って来て事情を聴いて直ぐに私も診た。カルテも読んだ。
あの状況下でよく、ここまでやり遂げクロエの命を守ってくれた。ありがとう、カオル」
アランは笑顔でそう言うと、薫を抱きしめた。

「ドクターハシモト。確かに今まで、色々と遺恨はあった。
しかし、クロエを助けてもらい町の者は全て、その遺恨を流し去った。
そして今は、敬意を持ってあなたをこの町に迎えたい。町の優秀なドクターとして。
この看板は俺たちの気持ち。どうだ、気持ちよくこれを受け取ってはくれないか」

ジョージの表情は今まで見たこともない程に、優しく穏やかなものだった。
「ドクターって言われても、私は単なる衛生兵の身分なんです。
今回はクロエの生命力と運に助けられ、この結果を得ました。
けれども、医師は運を頼っていてはいけないんです。しっかりとした知識と技術の元で結果を出さないと。みなさんの気持ちは嬉しいです。でも、自分はまだドクターではないんです」
「アランがいる。アランに習えばいい」
「アンタは確かに医者だよ。医者じゃない人間がどうしてクロエを治せたんだ!」
薫を庇うもどかし気な言葉が舞う。
「ダメです、それじゃダメなんです!
医者って言うのは、最前線でみなさんの大切な命を扱う責務があるんです。
工具を使っている方、素人の私に大切に手入れをした工具を貸してくれますか?
良い馬を持っている方、馬の知識のない私に馬をひと月、貸してくれますか?」
薫の言葉に皆が鎮まる。
「そうなんです。大切なことを、一時の感情で決めたりしてはいけないんです。
確かに私は医者になることが夢でした。でも、それじゃダメなんです。
私はみなさんが大好きだから!
だからしっかりと基礎から大切なことを学ばなければ、私はドクターなどと呼ばれてはならないのです」
「ライナスは馬鹿が付くほど正直で誠実だったが、日本にもライナスに張り合うほどの大馬鹿者がいたんだな。アランがなぜ、アンタをここへ連れ帰ったかが今、やっと分かった気がしたよ」
ジョージが笑いだす。
「何も今、すべてを決めることはないさ。今夜は町総出で、アランの帰還とクロエが助かった祝いを兼ねたパーティをやることにしたんだ。もちろん、アンタの歓迎もな。うまいものでも食いながら、相談しようぜ。これだけの人間が集まりゃ、誰にとってもいいって答えも見つかるだろうさ」

人の暖かさが嬉しかった。生きていて良かったと薫は心から思えた。
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