海蛍 15

文字数 2,156文字

 風呂から上がると部屋には夕食の膳が並べられていた。美しい器を贅沢に使い、色とりどりの他人事としてしか見たことのない豪華な料理がいくつも並べられていた。
「お酒のお代わりは仰っていただければ、すぐにお持ちいたしますから」
そう言いながら、仲居は手際よく膳を並べ終えた。
「あの、自分の分はどこにあるのでしょうか?」
宿の浴衣の帯をきりりと締め直し、薫は仲居に尋ねる。薫の言葉の真意が分からず仲居と日向が同時に薫の顔を見た。
「自分の分の食事です。あ、下の厨房かな?自分、食事に行って来ます。何かあったら声を掛けてください。すぐに戻ります」
薫は濡れた坊主頭を手拭いで乱暴に拭きながら仲居の横をすり抜け、スリッパを履こうとしている。
「お前、何をしているんだ?」
怪訝な表情で日向が薫に問いかける。
「食事の時間ですので、自分の分を食べに行こうかと……」
「お前、この量を俺一人で食わせようと言うんじゃないだろうな」
「え、いや、こんな豪華なお膳なんて自分のような身分の者には……自分はあくまで日向大佐のお供であって、同等の身分の扱いを受けるなど以ての外です」
食したことのない山の幸の天ぷらや煮魚が視界の隅に入り、思わず唾を飲む。
「橋本衛生兵。この宿は軍部が贔屓にしている信頼できる宿だ。我々はこれからここで食事をしながら、明日の行動についての打ち合わせを行う」
「わかりました。ならば自分は急いで食べて来ます!」
微妙に会話がかみ合わないまま、背を向け今にでも部屋を飛び出そうな薫の姿に日向は苦笑する。
「今回は軍の任務で来ていることを忘れたのか?下手にお前と別行動をして、大切な情報を敵方に奪われでもしたらどうする?さぁ、せっかくの心遣いが冷めてしまうぞ。有り難く頂こうじゃないか」
日向の言葉に、薫の視界にあったお膳は歪んで見えていた。

「自分は入隊した時、三度の食事がいただけることが嬉しくて仕方ありませんでした。味噌とか醤油とか……満足な調味料なんてなくて、世の中すべてが薄い塩味なんだって思ってました。すごいですよね、野菜を天ぷらにしたらこんなにおいしくなるなんて!それにすまし汁って素晴らしいです。大根の葉が僅かに浮いた汁は食べたことがあったけれど、それと同じに見えるのに、匂いがこんなにおいしそうで。味も……何ですか、この身体に染み渡る味は!?」

 どれも薫には初めてのものばかりで、一口食しては子供のように目を輝かせながら言葉が湧き出て来る。そんな姿を見て日向は笑いながらも、薫の生い立ちを思うと心を痛めていた。
「私は……」
薫の顔から笑みが引くと同時に、箸を持つ手が小刻みに震えだした。
「私は姉が亡くなったと知った時、正直、これですべての苦しみや悲しみから解放されて良かったのかも知れないって心の片隅で思いました。でも、違いますよね。やはり、人間は生きているからこそ……時に辛くて苦しくて死んだ方がマシって思うこともあるけれど、それだって生きているから思えることであって。姉ちゃんだって、ここでこんなご馳走を日向大佐と一度でも食べていたら……」
自分の言葉に薫はハッとした。そう、今まで聞いたことのない日向と敏子の関係。日向はまだ酒に手を付けてはいない。今ならば、自分の知らない敏子とのことが本音で訊けるかも知れない。
「日向大佐。私の姉の敏子とは、一体どのような……」
郭にいた姉とそこへ通った男の関係を問うことが馬鹿げていると気づき、言葉はそこで途切れた。
「……お前、呑めるんだろう?どうだ?」
日向が徐に徳利を手に酒を勧めてきた。
「いえ、自分にとっては大切な話なので、酒は……」
「そうか。済まないが私は呑ませてもらう。お前には申し訳ないと思うが、どうやら酒抜きで冷静に話ができるか自信がないからな」
日向は温くなってしまった酒を手酌でなみなみ入れると、それを一気に飲み干した。


「付き合いで姉上のいる店へ連れていかれた。私はそのような場所は行ったことはなかったが、誘ってくれた同期は明後日、出撃命令が出ていてそんな奴を俺は倫理感を盾に断ることなど出来なかった。そこで飲んで騒いで。その日、私と夜を共にしてくれたのがお前の姉上である敏子さんだった」
時折遠くを見るように視線が揺らぐ日向。一気に呑んだ酒が、首から胸元をほんのり朱に染め始めている。年上の上官に色気を感じてしまった薫は思わず、視線を下げた。
「そのような場所で働かなければならない女性の生い立ちは、聞かずとも想像は出来る。私はそのような場所で、身体を金で買うような行為はどうしてもする気にはなれず、夜明けまで敏子さんと話をしたんだ。学校へ行くことは出来なかったそうだが敏子さんは聡明な方だった。この戦争もそう遠くはない未来に、敗戦という形で終わることになるだろう。そして、これからは女性の地位も向上して、敏子さんのような聡明な人が国を支えることとなるだろうと、私は思ったよ。戦争が終われば、こんな場所に縛られることもなくなる。そうしたら、一から学問を始めて心新たに人生を始めるんだと言った。すると彼女は言ったんだ。『自分よりもそれに相応しい人間がいる』ってな。敏子さんはお前の生い立ちを語り始めたんだ」
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