海蛍 1

文字数 1,190文字

「は、はぅはっ……」
車椅子の上で突然、引きつった声にならぬ声を上げた老人に気付いた瀧田は、看護師との会話を一方的に打ち切ると慌てて、その老人の元へと駆け寄った。
普段は静かな薫のあまりの狼狽ぶりに、廊下にいた他の者たちも思わず振り返る。
「どうされましたか、橋本さん?」
瀧田は膝を折り車椅子の薫に視線を合わせると静かに微笑む。
「は、はっは、は……」
気管切開をし、腹腔内に拡がる癌に僅かな体力も奪われた薫には、自分の思いを言葉にする術がない。
薫の残された左手指先が小刻みに震える。全身全霊で必死に何かを伝えようとする様に、瀧田は薫が指すその先を見る。
「あ……」
廊下の隅に転がった古い万年筆に気付くと、瀧田はそれを大切に拾い上げる。
「橋本さんの宝物」
満足に動かないはずの手が、震えながら瀧田の手へ向く。
そして、それにやっとの思いで触れた。
「ありがとうございます」
薫に付き添っていた看護師は、瀧田に礼を言った。薫は受け取った万年筆を震える両手で拝むように受け取る。口からかすれた声らしきものがこぼれ出る。何を言っているかはもう、誰にも分らないが、それが『ありがとう』の意味であることは理解できた。深い皺の中に埋もれた薫の目から涙が滲む。
「さぁ、宝物を手に少し病棟内をお散歩しましょう。私がかわります」
瀧田のその言葉に看護師は頷き去った。
もはやその用途を果たせないであろう古びた万年筆を手に、嬉しそうに頬を涙で光らせたまま薫の乗った車椅子は再び静かに押され進み始めた。
「鴨川、今日も穏やかですね。先生」
周りに誰もいないことを確認して、瀧田は薫を『先生』と呼ぶ。大学病院6階の大きな窓からふたりは鴨川を見つめる。

好々爺として入院先であるこの医大で誰からも笑顔で迎えられる高齢の橋本薫。しかし、幾度かの手術に麻酔科医師として立ち会った瀧田は知っていた。その身体には、命さえ落としかねないような傷が複数あることを。そして、橋本がその傷の数だけ地獄を見てきたであろうことも。
小春日和の穏やかな日差しの中、鴨川は水面を光らせ医大を仰ぎ見るように流れゆく。あの日から70年もの月日が経っていた。



「このヨーチン野郎が!」
罵倒と嘲笑の中、幾度も幾度も殴られる。数発目からは顔では目立つからと、腹や背を執拗に狙われ殴られ続けた。痛みで気が遠くなる中、倒れるわけにはいかない。倒れた瞬間に制裁は更に増すのだから。
「ヨーチン野郎のお前と俺たちが、同じだけ飯を食うなんておかしいと思わないのか?」
殴られながら言われる言葉はいつでも同じだった。腹が立たないといえば嘘になる。しかし、自分の唯一の居場所であるこの場は階級がすべて。僅か半日でも、一食でも飯を先に食った者が先輩となり上官となる。口答えなど許されるはずもない。

そう、世の中はいつでも理不尽だった。
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