海蛍 17

文字数 2,912文字

「言われた通りにお先に頂いていました。本当に美味しいですね、どの料理も」
日向が部屋に戻ると薫は、少し前まで遠慮気味だったのが嘘かのように膳の料理を嬉しそうに頬張っていた。
「自分はもう、ここに滞在している間、日向大佐の仰る通りに過ごさせていただくことにしました」
一口ごと笑顔を絶やさない薫に日向もまた笑顔になり席に着く。

頑なに断っていたはずの酒を飲み干すごとに、寡黙な薫は次第に饒舌になっていった。それまでの悲壮感は消え笑顔を絶やすことはなかった。
「もしも……お前に出撃命令が出たとき、会いたい人はいるのか?」
不意に出された日向のその言葉。
「親とは縁を切られていますし、姉も亡くなってしまいましたし自分には別段」
「肉親以外に誰かいないのか?」
薫の困惑を無視するかのように、日向はなおも薫に問いかけてくる。
「……いいんです、もう」
自らの心を悟られまいと、薫は酒に手を伸ばし日向から視線を逸らす。
「想う人がいるのか?」
僅かな距離から、一番それに触れて欲しくはない人から問われる言葉に薫は押し黙る。日向の出撃が近いことを知ってしまった今、薫には何も聞かなかったふりをして取り乱さないことだけしか脳裏に浮かばない。
「入隊するまで生きることで精一杯だったんです。他の誰かを想う心の余裕なんて。他の連中は出撃命令が出たら家族に会うか遊郭で羽目を外すかですが、自分は姉を思うと、とてもそんな気にはなれません」
「『いいんです、もう』が本音なんだろう?その人に会いには行かないのか」
日向の言葉がじりじりと自分を追い詰めてくる。この人を欺くことは無理なのだろう。けれどもこの想いだけは絶対に口にできない。姉との出会いがきっかけで自分と関わってしまった日向に、これ以上の負担はかけられない。出撃前の残り僅かな大切な時間を自分に向けてくれたのだから。きっと自分も日向と共に艦に乗ることとなるだろう。今は日向と楽しく過ごしたい。そして共に散り行きたい。日向が作ってくれたひとときを守りたい。
「…あ、あの、想いを伝えられない相手なんです」
「伝えられない?人妻なのか?」
「ち、違います!あの、その……自分がその人を好きだからって、出撃命令が出たからって、その事実を突きつければその人は自分に同情してくれるかも知れません。でも、心は向いてはくれない……それじゃ嫌なんです。自分はその人の心が欲しいんです。一時の同情や偽りの言葉じゃなくて心が」
薫の辛そうな表情に日向は我に返った。
「済まなかった。私も酔いが回ったようだな、お前の気持ちも考えず根掘り葉掘りと。許してくれ」
深く頭を下げる日向に薫は慌てる。
「やめてください!日向大佐のような方が、たかが一兵卒の自分に頭を下げるなんて!だったら自分にも聞かせてください。大佐は姉のことを、どう思っていたのですか?」
聞くことが怖かった。もしも姉を好きだと言われたら、きっと自分は壊れてしまうと思っていた。けれどももう、その質問を躊躇うことはやめた。躊躇うにはあまりに時間がなさ過ぎた。
「敏子さんには心に決めた人がおられたんだよ」
「え!?」
それが日向自身を指すことではないとすぐに理解できた。
「昨年末、私の先輩にあたる方が南方へと出撃して戦死した。敏子さんはその方を好いておられたんだ。先輩もまた、敏子さんを思っておられた。出会って三カ月も経たなかったというのに、ふたりは互いに強く思い合った。出撃命令が出た時、私は先輩から敏子さんの話を聞き後を託されたんだよ。この戦いはもうすぐ終わるから、そうしたら彼女の力になって欲しいと。その後、私は同期の者に頼んで敏子さんのいる店へ連れていってもらった。先輩からの遺書と遺髪を持ってな。でも、敏子さんはそれを一読することなく私の目の前で燃やしてしまったよ」
「燃やしてって……」
「立派な海軍軍人さんが、自分のような者にこの様なものを残しては、後世本人や身内が恥ずかしい思いをするだろうからとな。敏子さんは泣くこともなく、それが燃え尽きるまでしっかりと炎を見つめていたよ。荼毘に付された先輩を見送るかのように毅然として」
冷めてしまった徳利からコップに酒を並々注ぐと、日向はそれを一気に飲み干し小さく息を吐いた。
「先輩の敏子さんへの思いの深さを知っていたこともあって、友情と責任感で私は彼女の元を訪ねた。しかし、彼女の聡明さと人柄、そして弟思いのその姿に私はいつしか自分の友人として彼女と接するようになっていた」
「友人……ですか?」
「あぁ、戦争が終わり互いに生き残っていたら、共に夢を叶えようと誓い合ったよ。と、言っても敏子さんは自分の夢は弟の夢を叶えることだから、自分に何かがあったら弟を助けて欲しいと言っておられたがな」
やはり日向にとって自分の存在は敏子抜きでは有り得なかったのだと、薫は迷うことなく納得した。それは悲しみの一端ではあったが、日向と敏子の間に恋愛感情がなかったことだけは、薫の救いでもあった。
「日向大佐は思いを寄せている方はいらっしゃらないのですか?」
迫る命の刻限が、薫を次第に大胆にさせていく。
「……いるよ。思いを伝えられない相手だがな」
日向の言葉に身体の力が抜けていく。
「ははは……お前がさっき言った言葉を真似たんだよ」
そう言うと日向は大きな声で笑った。


「失礼致します。そろそろお床の支度をさせていただこうかと……」
襖の向こうから控えめに女将の声がした。中から返事がないので、そっと様子を伺うように女将が襖を開けると日向の膝の上で薫は熟睡していた。日向は薫を気遣い返事をせず、女将に軽く頭を下げた。
「このお若い軍人さんは余程、日向様のことを信頼しておいでなのですね」
女将は後ろに控えていた仲居たちに目配せすると、静かにお膳を片付けさせ奥に布団の用意を始めた。全てが片付いて布団の用意が出来ても、深く眠る薫の姿に女将は苦笑する。
「色々とあったもので、せめて今だけは静かに寝かせてやりたいんですよ」
日向は小さな声でそう言うと、そっと薫を抱きあげ布団に運び寝かせた。薫は寝息を立てて眠り続ける。宿に着いて出迎えた時、薫の顔や見える所に無数の痣があるのを女将は見ていて、日向の言葉に何かを察し無言で頷く。部屋を出ようとした女将に日向は
「明日の釣り道具と弁当、よろしくお願いします」
と言いながら頭を下げた。
「心を込めて作らせていただきますよ」
女将はそう言うと部屋を後にした。

 酔って熟睡する薫を日向は隣の布団から愛おしそうに見つめる。見える傷はいつかは癒えるが、見えない心の傷を姉を失った今、自分までもがいなくなれば薫はどうするのだろうか。負け戦とわかっていながらも、この命までもを差し出さなければならないのか。この国にはもう戦力も物も残ってはいない。いや、国を支えるべき若い命ですら残り少ない。自分の命が薫の盾になるのなら、すぐにでも差し出していい。せめて薫が生きているうちに無謀な戦が終結することを日向は祈った。

あどけない薫の寝顔に日向もまた苦しむ。
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