海蛍 39

文字数 2,320文字

 当時、破傷風は極めて死亡率が高かった。
傷などから体内に入りこんだ破傷風菌は強力な毒素となり、運動に関わる運動神経に入り込み脳に侵入し、脳での運動神経を興奮させ全身に痙攣が起こる。適切な治療ができないことは、死をも意味した。
音・光などの刺激は強い痙攣発作を誘発する。薫はすぐさま、町中の布を集めるよう指示をして、それで診察室を覆わせた。出来る限り光と音をクロエから遠ざけようとしたのだ。ストックされた薬品で対応しながら、隣町へ必要な薬品を取りに行くことはニールが名乗りを上げた。
「クロエに万が一のことがあったら、お前を広場で吊るし首にしてやる」
薫から薬剤の名の書かれたメモを受け取りながら、ニールはそう言った。
そう言いながらもニールの手は、微かに震えていた。


 どす黒くなった足を切開し、その患部を水で洗う。痙攣するその身体をヘレンやアンナなど女性たちが掴み押さえる。抗生物質を投与しながら、不規則にやって来る痙攣発作に皆が不眠不休で対応する。町はクロエのために、物音一つしない廃墟のようになった。唯一、医療行為が出来る薫だけは眠ることも許されず、絶えずクロエの症状の些細な変化をも観察しカルテに記録を続けた。

そんな中、隣町に着いたニールから無事に薬を受け取り、これから馬で山越えをして戻ると電話で知らせが入った。車を使えば山を幾つか迂回するのでかなりの時間がかかるが、馬で山越えをすると所用時間は半分近く短縮される。しかし、その山は険しく道はない。道を作ることさえ諦められた山だった。自分が生まれ育った土地も医師はなく、恵まれてはいなかったが、戦勝国であるアメリカでもこの様なことが今も日常茶飯事に起きていることに薫は人知れず驚き胸を痛めていた。

「クロエは……」
眠ったクロエを女たちに任せ、隣室で薫は腿を撃ち抜かれたジョージの手当をする。
刺々しく、自分に絶えず殺意を向けていたジョージ。今は牙を抜かれたオオカミのように静かになっていた。
「頑張ってます。あんな小さな体で生きようとして病魔と闘っています。
あなたやヘレンさんが大好きなんでしょうね。
正直、幾度か危ない局面もあったけれどクロエは自らの生命力で乗りきっています」
ジョージの傷の縫合をしながら、薫は答えた。
「俺はこんな荒くれ者だが、ヘレンとクロエは違う。あのふたりは神様が俺に与えてくれた家族なんだ」
麻酔もなく縫合され、かなりの痛みがあるはずだが、ジョージの頬を伝う涙は痛みから来ているものでないことを薫は理解していた。
「俺は今日まで自分がヘレンの良き夫であり、クロエの最良の父親だと信じて疑うことはなかったよ。
しかし、ヘレンに撃たれてこのザマになって初めて……
自分がクロエの親になりきれていなかったと気づいた」
包帯を巻き終え薫はジョージに肩を貸そうとしたが、ジョージは力なくそれを拒否した。それは薫を拒否しているのではなく、誰の目にも触れないよう、静かにそこにいたいが故の行為だった。
「クロエは……私の血のつながった娘じゃないんだ。
クロエの父親はアランの兄のライナスだ。妻のヘレンもライナスの妻だったんだ」
俯いたままのジョージの突然の告白に、薫は驚きすべての動きを止めた。


「ライナスとヘレンはそりゃ仲のいい夫婦だった。俺たちは幼馴染でいつでも一緒だった。
そして、いつでもヘレンはライナスを見つめていたよ。二人が結婚するときは、町中で祝ったものさ。
三日三晩、大騒ぎしてな。実は三日三晩の騒ぎってのは、祝うためと言うよりも、ヘレンをライナスに取られた男たちの嘆き祭りだったんだがな」
薫から目を逸らしながらも、ジョージは初めて薫に対して笑みを浮かべた。
「ヘレンが身ごもり、これからって時にライナスの元に戦場への招待状が届いたのさ。
俺は徴兵されない身体だった。恨んだよ、この身体をな。ライナスの代わりに行けるものなら行きたかった。戦場へ向かう前夜、俺はライナスから頼まれたんだ。
『自分が戻らなかったら、ヘレンと生まれてくる子の父親になって欲しい』ってな。
お前、そんな気持ちで行くのか!ってライナスを殴り飛ばしちまった。
翌朝、ライナスは俺に殴られた痣をつけたままこの町を出たのさ。
そして、ライナスは帰っては来なかった。硫黄島で苦しんで苦しんで死んでいったと聞かされた。
末端の一衛生兵のお前を恨んでどうなる訳でないことぐらい、馬鹿な俺でもわかってはいるよ。
でも、でもな。ライナスそっくりなクロエを見ていたら、この気持ち、お前にぶつけずにはいられなかった。……済まないが、しばらくここでひとりでいたい」
薫は無言で頷くとジョージに背を向けた。
背中の痛みを隠し耐えるように歩く薫の姿に、ジョージは唇を噛みしめる。
「おい」
小声での一言に薫は振り向く。
「済まないことをしてしまったな。戦争は終わったと言うのに、戦場と同じぐらい非道で残忍なことをしてしまった。俺がこんな浅はかなことをしてしまったから、ライナスが怒ってクロエを迎えに来たのかも知れない。謝る。心から謝る。酷いことをしてしまった。許してくれ。
そして、どうかクロエを助けてやってくれ。お願いだ、Dr,ハシモト」
虚勢を張っていたジョージの姿はもう、そこにはなかった。
ただ、わが子となったクロエが助かることを祈る、悲しいほどに追い詰められたジョージがそこにいた。
「もしもクロエを助けることができなかった時、私は医師になることを諦めます。
クロエがひとりで淋しがらないように、私も一緒に着いて行きます」
薫はクロエの命に自らの命を委ねる決心をした。
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