海蛍 48

文字数 2,305文字

「硫黄島での戦いがどんなに悲惨だったかは、カオルも知っているだろう?」
薫は黙って頷く。
「日本兵を灼熱の洞窟へ追いこみ、兵糧攻め状態にしたそうだ。
ライナスの役目は、それに耐えかね洞窟から出てきた日本兵を余すことなく狙撃することだった。
しかし、既にライナスの精神は限界を超えていた。ライナスは命令を遂行できる状態ではなくなっていたんだ。苦しさから逃れ、洞窟から息も絶え絶えに這い出てきた日本兵を見つけたライナスは狙撃するどころか、その日本兵に自分の持っていた水を分け与えた。
日本兵は美味そうにライナスの差し出した水を飲み干した。
水を恵んだライナスに、その日本兵は生き残るために一縷の望みを懸けたのだろうか。自分の持っていた妻子の写真を取りだし見せたそうだ。自分のためじゃない、妻子のために帰りたかったんだろう。日本兵は泣きながらライナスに手を合わせた。しかし、そこへ同じ海兵隊員が来て日本兵に銃を向けた。
機銃で蜂の巣にされたのは、日本兵ではなく、それを庇ったライナスだった。
そう、ライナスは敵である日本兵を庇って死んだんだ」


アランの告白は薫の想像を遥かに超えたものだった。
沈み行く艦でたくさんの仲間の屍を踏み越えた薫だからこそ、その惨状を苦しくも容易く想像できた。ライナスもまた、誰かを護るために命を落としていたのだ。
散々、泣きぬれた瞳から、途切れることなく涙が落ちる。
その涙は日向へのものではなく、人としての矜持を捨てることのなかったライナスへの敬意を表す涙だった。

「ライナスの行為は謀反であり、反乱兵であると騒ぎになった。
ここで待つヘレンやクロエに何といえば良かったのだろう。
泣きながら見送った夫が反乱兵の汚名を着せられているなどと、私には言えなかった。何よりライナスは断じて人として決して間違ったことはしていない。私は今もそう思っている。私は軍医として、ライナスが兵士生活によって普通ではなくなっていたとして戦死扱いになるよう奔走した。おかしな話だと思うよ。正しいことをしたライナスが異常だった証明をしなければならないなんて。でも、そうするしか道はなかった。幼子を抱えたヘレンには戦死したライナスの恩給が不可欠だったのだから。
そして、ライナスが名誉ある合衆国海兵隊での戦死者として認められた連絡を受けた日、甲板でライナスの散った硫黄島の方向を見ていたあの時、君を……
漂流物と共に漂っていた、瀕死のカオルを見つけたんだ」

何度目かのコーヒーを淹れようと立ち上がった薫の視界に、白みがかった空が映る。アランもまた、薫の視線に合わせるかのように外を見る。

「どんなに辛かろうが切なかろうが、夜明けの来ない夜はない。
ライナスが死んでも、キャプテン・ヒュウガが死んでも、陽は昇り、そして陽は沈む。
死んでしまった者への思慕を抱えながら、私たちは生きなければならない。
その歩みを止めるということは、不本意に亡くなっていった者たちへの冒涜だと思わないか?」

アランが何を言おうとしているのかが、薫にはわかった。

「私はここで自分を受け入れてくれた町の人たちのために、生涯尽くすことを心に決めたんです。ジョージもクロエもヘレンも、私はみんなが大好きです。
私を医科大学へ行かせようとしてくれたみんなの気持ち、私は忘れません。
だって!姉と日向艦長以外、自分のことを思い考えてくれた人はいなかったからです。初めて得た自分の居場所だったんです、ここは……
医者になれなくてもいいんです。町の下働きをしながら、その日生きる糧を得て暮らせるのなら、町の人が自分を受け入れてくれるのなら、私はそれだけで満足なんです!」
新たな別れの予感に薫は恐怖を感じる。
大それた夢を捨てれば自分はアランと共にここで暮らせる。
アラン亡き後も、この町で静かに暮らしたい。だが、アランは険しい表情で言った。
「今なら私は確信を持って言える。私たちが海洋上で出会ったのは偶然なんかじゃない。あの出会いは用意されていたのだと。自分を失い俯いていた私をしっかりさせるためにライナスが。そして、カオルが進むべき道を用意し終えたキャプテン・ヒュウガが、私とカオルの出会いを用意してくれていたんだ。
私はキャプテン・ヒュウガからカオルを預かったんだよ。
あの時の日本ではカオルが暮らしにくいから、暫く私の元で心と身体を癒し立て直すようにとね。カオルは日本人だ。ヒュウガカオルなんだ。ヒュウガカオルとしての責任を果たそうじゃないか」
「日向薫としての責任……?」
「あぁ、責任だ。笑顔で夢に向って進むんだ。
この道を作ってくれたキャプテン・ヒュウガに感謝しながら、今度はカオルが誰かのためにその道を作る手伝いをするんだ。生きていれば道は拓けるってわかっただろう?いいかい、今度はカオルが誰かを生かし道を……」
アランの言葉が嗚咽で途切れる。

「アランをひとり置いて自分の道を進むなんて、私にはできませんっ!」
「私はひとりじゃないよ。ジョージを始め、町のみんながいる。
寧ろ、日本に戻るカオルの方がいばらの道を歩むことになると思う。
出来ることならここに……カオルに居てもらい、今まで通り一緒に暮らしたい。
でも、それじゃいけないんだ。出ていくんじゃない。
カオルは自分のいるべき場所へ帰るんだ。わかるね?」
薫はついには口を固く閉ざした。
「私は外で頭を冷やしてくる。いいかい、カオル。時間がないんだ。
情に流されることのない、冷静な判断をするんだ」
アランはそう言うと、ひとり夜明けの町に消えた。
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