海蛍 35

文字数 2,296文字

 アランがセイラムへ向けて旅立ち十日が過ぎた。

 日が昇ると同時に家の修理を始め、夕暮れには外での仕事を終わらせ、夜は部屋でアランの残した書物での勉強をと、薫は診療所の再開に思いを馳せながらアランの帰宅を待つ。いつか、この診療所に多くの町民が訪れ、アランと共に病める者たちを助けることが出来るならばと想いは強くなる。

アランがいなくなってから、薫は日向を思いだすことが多くなっていた。

 日向の存在がなければ、日向と心が通じていなければ自分は石田少将に直談判してまで艦に乗ることも、そして、敵国であったこのアメリカへなど来ることもなかった。日向の命を奪ったアメリカ人に助けられ今、日本では叶うことのなかった医師への夢が近づいている。人ひとりの運命や命は、何とたやすく己の意に反して翻弄されるものなのか。
「逢いたい……逢いたいです、日向艦長……」
アランのいない部屋で思わず弱気になり、忘れられないその人の名を口にする薫。パチンと暖炉の薪が大きな音を立て、薫は我に返る。感傷に浸っている暇はない。日向の命までもを背負った自分はとにかく前へ前へと進むしかない。明日も早いと片づけを始めた時だった。
ガタン!!大きな音と共に家が揺れた。と、同時に無遠慮に複数の人間が入ってくる音がした。訳が分からず後ずさりしながらリビングの扉を見入る。
「やぁ、ジャップ。まだここにいたのか?もうすぐ冬が始まる。サルは山に帰って冬眠しなきゃな」
薫の姿を捉えると同時に銃を構えたニールが、瞬きもせず言った。
「ニール、お前は本当にバカだよな。サルが冬眠なんてするかよ。冬眠しないから、二度と人里に戻らないように痛い目にあわせて追い出さなけりゃいけないんだ。黄色いサルと俺たちは共存できないって、サルに教えるために正当な調教をな」
自らに言い聞かせるかのように言いながら、ショットガンを構えたジョージが続いてゆっくりと入ってくる。ジョージの後に、町の屈強な男たちが続いて入ってくる。アランと磨いた床が泥まみれの靴で汚れる。
「アランは診療所再開のためにセイラムに行ってます。私に出来ることがあれば話を伺います。だからどうかその銃を降ろしてください」
薫の言葉に
「おい、このサル、俺たちに命令したぞ!」
と、ニールが笑いだす。そして、薫の足元へ向けて手にしたライフルから一発を見舞った。夢を語りあいながら磨いた床に勢いよく穴が開いた。硝煙の匂いが鼻腔の奥にまで達した。男たちの本気を薫は身を持って知る。
「お前をこのまま撃ち殺して山に埋めて知らん顔も出来るんだ。でも、この町の連中は皆、アランの世話になって今、こうして生きている。お前を殺さないのはアランへの恩義、それだけだ。俺たちがお前を殺したり追いだしたとなれば角も立つが、お前が自発的にここを出たとなれば、アランも恩知らずのサルのことなどすぐに忘れてしまうさ」
ニールの言葉に今度はジョージのショットガンの銃口が薫を捉える。
「今すぐに出てくのなら、三日分の食料をやろう」
「お断りします。私はここでアランの帰りを待つと約束したんです。私は……私は、アランの元で医師になるんです!!」
「サルに治してもらおうなんて奴は、この土地にいやしないんだよっ!」
怒りで我を忘れたニールは、ライフルで薫の頬を殴りつけた。小さな薫の身体は人形のように部屋の隅に撥ね飛ばされた。
「殺してやる。甥のウォーレンとライナスの無念を込めて、腹がいっぱいになるぐらいに鉛玉をご馳走してやるよ!」
トリガーに指が掛かる音がした。
「待てよ、ニール。それをしちゃアランが黙っちゃいねぇ。いいか、こいつには自発的にここから消えてもらわないと。動物ってのはな、こっぴどい仕打ちをしたら恐怖で二度と人里になんて降りて来ないのさ、二度とな……」
再びパチンと弾けた暖炉の薪を横目で見たジョージの口角が僅かに上がった。
「サルが逃げないように掴むんだ、さぁ!」
後に続いていた男たちが部屋になだれ込む。転がる薫を捕まえると床に押さえつけた。
「こいつの服を脱がせろ。サルが服を着るなんて笑わせやがって」
力任せに引き裂かれたシャツから現れる、戦火をくぐり抜き生き残った身体。暖炉隅に刺さる火かき棒を手にすると、ジョージはそれを燃え盛る火に押し込んだ。周囲はすぐにジョージが何をしようとしているのかを悟る。薫もまたそれに気付き、渾身の力を込めて抵抗をする。1分ほど熱した棒を取りだすと、それは朱色に発色し陽炎さえ放っていた。
「お前はここにいるべき人間だと思うか?答えはNOだ」
そう言うと同時に、ジョージの手にした火かき棒は、薫の肩から腰まで一直線に押しあてられた。
「いやぁぁぁぁっ!!」
もがく手がいびつになった床を掴み爪が剥がれる。熱さと痛みで叫び声は瞬時に枯れ、涙と鼻水が流れ出る。辺りは血肉が焼ける不快な異臭が漂よう。背から引き離された火かき棒には薫の皮膚が、垂れさがるようにこびり付いている。ジョージは表情を変えず、その棒をまた燃え盛る火に突っ込む。熱を蓄え再び朱に光を放つ火かき棒を薫の背に近づける。
「NOってことは×ってことだ。お前が答えを忘れないように、しっかりとここへ刻んでおいてやるから」
焼けて燻った背の傷にクロスさせるように、ジョージは躊躇うことなく再び火かき棒を薫の背に押しあてた。
「ぎゃゃゃゃっ!!」
背に大きく燻る×印を背負ったまま、薫は身体を硬直させたまま気を失った。ジョージとニールは気を失った薫を見て鼻で嗤うと、表情を変えることなく部屋を出た。
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