海蛍 8

文字数 1,464文字

 この日を境に薫は、生まれて初めて生きることに喜びを見いだせるようになった。昇進した訳でも、給金が上がった訳でもなく、陰では相変わらず意地の悪い上官たちに目をつけられ、痣が出来るほどの教育という名の制裁も受けてはいたが、遠くからであっても日向の姿を目にすると全ての辛さ苦しみをも忘れられた。自分とは階級も違い会話などする機会はあれ以来、皆無ではあったが、日向の中に確実に自分の存在があると思うだけで薫は満足だった。
 翌月のある日、一日の成すべきことをすべて終えた薫が部屋へ戻ると、机の上に小さな白菊の花束が置いてあった。その日は姉、敏子の祥月命日であり、薫はその白菊を持参したのが日向であることにすぐに気づいた。
「敏子姉ちゃん、日向大佐がこれを……」
純白の菊の輪郭が次第に滲むようにぼやけて見えてくる。最愛の姉を亡くしてまだひと月しか経っていないというのに、日向の心遣いが嬉しくて。
手にした菊の花びらが弾かれるように小さく揺れる。薫の涙を受けながら。始めは姉への心遣いへの嬉し涙だったが、花びらが揺れるたびにその涙は苦しく切ないものに変わっていく。敏子を亡くしたことは辛いのに、日向のことを思うとそれ以上に辛く胸が痛む。自分が日向に対して持ってしまったその気持ちに気付いた薫は、菊を手にしたまま思わず天を仰いだ。
「姉ちゃん。俺、日向大佐のことが……」
薫が生まれて初めて好きになった人は、あまりに身分の違いすぎる同性だった。菊の花は薫の涙を受け儚く光る。


 日向の思いのこもった菊の花を活けようと、暗い人気の絶えた炊事場に立ち入った時だった。
「生ぬるい仕事をしていると、女々しい趣味に走るんだな」
背後から聴こえたのは、蔑む嘲笑交じりの言葉。振り返ると闇の中には、いつもの五人が立っていた。
「帝国軍人が花などに現を抜かすなど、言語道断だ!」
言葉と同時に、薫の手から奪われた花は無残に床に叩きつけられた。驚き言葉を失う薫の前で、男たちはその花を嗤いながらなおも踏みにじる。
「やめてください!これは亡くなった姉へ手向ける花なんですっ!!」
逆らうことが許されない中、薫は菊を踏みつける無慈悲な上官の足にしがみ付き懇願した。踏みつけられる菊を護ろうと薫は自らの手を差し出し男たちに踏まれ続けた。白い菊は薫の血を受け朱に染まっていく。
「その姉ってのは、遊郭で男相手に稼いでいた阿婆擦れだったんだってな」
手を踏みつけながら、男の一人が薫の頭上から冷水のような言葉を浴びせた。
「この基地にお前の姉と寝た男ってのを集めたら、一個小隊どころか中隊くらい編成できるんじゃないのか!?」
踏まれた菊はもう、花の片鱗もなかった。まるで日向の存在までも消し去るように。死を選ぶしかなかった不憫すぎる姉を愚弄し笑い、日向の思いのこもった花までもを踏みにじられ、薫の我慢は限界を超えた。
「謝れっ!姉ちゃんに謝れっ!!」
踏まれながらも薫は男たちを睨むように仰ぎ見ながら、怒りを込めて怒鳴った。
「お前、日向大佐に目を掛けられてるからって、生意気になったんじゃないのか?」
男は笑いながら薫の髪を鷲掴みにすると、その頬を思い切り殴った。
「売女の弟なんだろ?だったらその弟らしくお前もお国のために命懸けで働く俺たちに尽くしてみろよ」
次の瞬間、鳩尾を思い切り蹴り上げられた薫は、意識を失った。辺りを見回し人気のないことを確認した男たちは、薫を背負うと離れの倉庫へ消えた。そこには薫の血に染まる無残に散った菊の花だけが残された。
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