海蛍 16

文字数 3,185文字

穏やかに宿を囲んでいた新緑は仄かな月明かりを浴びる。時折、駆け抜ける風が葉の塊を大きく揺さぶる。しかし、日向も薫もそれを気にすることはなかった。気になるのは、事実を語り語られる者の心の揺らぎだけ。

「敏子さん、医者になりたかったそうだよ」
伏し目がちに日向の口からこぼれ出たその言葉に薫は驚き言葉を失う。
「生まれ育った土地は貧しくて医者にかかることなど出来る者は、地主などごく限られた者だけだったと。過酷な労働や半ば強制的に子を産まされる村の女たちの悲惨さは、言葉では伝えられないほど酷いものだったとも。しかし、満足に学校へも行かせてもらえなかった自分にはそれを“夢”というにはあまりにも憚られたと誰にも話したことはなかったそうだ。そんな時、お前が医者になりたいと言うのを聞いて、敏子さんは涙が出るほど嬉しかったそうだ」
畑仕事からの帰り道、朱に染まった敏子に自分の夢を初めて口にした日のことを薫は思い出していた。そう、あの時、敏子はそんな薫の壮大すぎる夢を笑うことなく聞いてくれた。そして、励ましてさえくれた。
「……った」
「ん」
「言わなきゃよかったんです、あんなことを」
震えるその声に、日向の視線は静かに薫へ動く。
「今、知りました、姉の本心を。自分は何と馬鹿なことを口にしてしまったと後悔しています。自分があんな夢にもならないことを言ってしまったばかりに、姉は身売りまでしてしまったんですから。そして、そのまま……」
正座した薫の太腿に涙の粒が点々と落ちる。その姿があまりに切なくて、日向の唇は震えるばかりで言葉が出ない。
「人間って絶対に平等なんかじゃないんです。自分がどんな境遇の元に生まれ落ちたのかを弁えて、それに見合った夢を……いえ、諦めですね。あそこで大人しく小作人として飢え死にしない程度に生きながらえることを有り難く思って生きていれば、姉にだって後にいいことがあったかも知れないのに」
悔しさが身体に満ち溢れ、言葉は途切れる。
「ほら、橋本」
俯く顔の下に差し出されたのは、並々と酒が注がれたお猪口。酒の匂いが鼻腔に入りこむ。薫はこれを拒否せずこくりと頭を下げると一気に飲み干した。顎から滴ったのはこぼれた酒でないことは、日向にはわかっていた。
「弟のお前がいかに利発で穏やかで優れているかと敏子さんは我がことのように自慢をしていた、嬉しそうにな。お前の話をしている時の敏子さんの表情、誰よりも美しかったと思う」
郭での辛い日々も日向との出会いで、僅かでも心安らぎ笑える時があったのだと薫は知った。そう、今の自分と同じように日向のそばで日向の一挙一動に心が浮き立ち……
「私の夢は船乗りだった。大きな客船のな。たくさんの人たちの夢や希望を載せて水平線をどこまでも進むんだ。だが、私の家は代々医者でな。跡取り息子である自分には船乗りになりたいなんて夢を口にすることさえ許されなかった。いや、お前のことを思えば、このことがいかに我儘で贅沢な悩みなのかは理解しているつもりだ」
日向は薫を気遣い、僅かに早口になった。
「日向大佐が医者に……」
「先の空襲で自分は親兄弟や身内のすべてを失った。『お国のために』の時代が終わったならば自分は親の願いを叶えるために不本意ながらも医師の道を選ばねばならなかったが、自分にはもう医者を強要する者は誰一人いなくなった訳だ。そんな時、お前の話を聞いて私は自分の医師への道を、見知らぬお前に託したくなったんだ。あの万年筆は私の祖父がドイツ留学した際に買って勉強に使った万年筆。父もあれを使って医師になった。そんな強い思い入れのあるものを志のない自分が持つ資格はないと悩んでいたが、お前の話を聞いてすぐに思った。敏子さんの弟のお前ならば、きっとあの万年筆に込められた思いを継承してくれるに違いないとな」
日向の穏やかな口調に反して、薫の顔は見る見るうちに青ざめていく。
「橋本…?」
「も、申し訳ありませんっ!そんな大切な品を自分は、自分は穢してしまいました……」
薫は日向から離れると同時に土下座をした。そして、畳に額を擦り付けながら詫び続けた。その詫びている事実は決して薫が望んだことではないと日向は痛いほどに知っている。知っているからこそ、薫のその姿が辛かった。
「辛いかも知れないが、やはりこれは未来あるお前が持つべきものだ」
日向は懐に忍ばせていた万年筆を取りだすと、畳に押し付けたままの薫の手を取りそれを持たせた。
「祖父と父、そして敏子さんと私の思いのこもった万年筆だ。私は君にこれを堂々と託す。医者になれ。お前にしかなれない、人の痛みのわかる医者になれ、橋本」
「……重すぎます、自分にはあまりに。それに、今の戦況で医者になんて。自分は軍医にすらなれず衛生兵だと馬鹿にされて」
「いいか、お前ならわかるだろう。この戦争がいかに無謀で未来のないものなのかが。もうすぐ終わる、すべてが終わる。その時まで耐えろ。何があっても耐えて耐えて耐え抜くんだ。生きてさえいれば……」
「お言葉は有り難いと思います。けれども自分は明日にでも出撃命令が出れば散り行く軍人なんです。戦いが終わって自分が生き残っているなど、考えることができませんしわかりませんっ!」
「そうさ、明日のことなど誰にもわかりはしない。だったら生き残るという選択肢も想定したっていいじゃないか。お前と生きるためなら俺は田を耕し漁をして、土木作業をしてでもお前を医学の道に進ませてやるって言っただろう?俺は本気だ。実現したらいいなと願いさえしている。生き残って今まで苦しくて泣いた分、これからは大いに笑おうじゃないか。天に召された敏子さんに聴こえるくらいに」
「ぅ、うっうあぁぁぁっ!」
もう感情の抑制など出来る状態ではなくなっていた薫は、日向の胸に飛び込むとしがみ付き幼子のように泣きじゃくる。日向はただ、懐にいる薫の頭を撫で続けた。

薫は生まれて初めて幸せを感じた。

「日向様、至急のお電話が入っておいでです」
襖の向こうから女将の声が聴こえた。
「わかりました。すぐに行きます」
頭上で日向の声が心地よく聴こえる。
「本部から何らかの確認事項でもあるのだろう。私はすぐに戻るから、お前は遠慮せずにここで食事をしていなさい」
幼子に言い聞かせるかのように日向は言うと、改めて万年筆を薫の手に掴ませその手を覆うように自らの手を重ねた。
「確かにお前に託したぞ。いいか、これを今度はお前から新たに誰かに託すんだ。命を繋ぐ志のある者へと」
薫は日向の言葉にしっかりと頷いた。

日向が消え一人部屋に残された薫は、食事に手を付けることなく日向を待った。ふと壁にかかった日向の軍服に視線が行く。自分のものより大きめのその軍服がたまらなく愛おしく感じる。薫は静かに立ち上がるとそれの前に立ち見つめた。
「ごめんなさい。こんな気持ち、死んでも誰にも言わないし悟られませんから。だから今だけ……」
薫は日向の軍服を両手で掴み抱きしめた。禁じられた思い、日向の匂いが麻薬のように感じる至福のひととき。空虚だった心が勢いよく満たされていくのを薫は感じる。

そろそろ日向が戻るが酒は既に冷えている。自分のせいで酒を味わうなど出来なかったであろう日向に申し訳なさでいっぱいになった。
「女将さんにお代わりをお願いしておこうか」
薫はもう一度だけ日向の軍服に頬を当てると、深呼吸を一つして部屋を出た。

帳場は静かだった。奥から日向の低い声が時折聴こえてくる。その言葉遣いから日向よりも上の身分の者との会話だとすぐに理解できた。
「わかりました。では私の艦の出撃は予定通りに……」
穏やかに、ごく普通の会話のように日向は確かにそう言った。
「え、出撃……?」

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