海蛍 49

文字数 1,404文字

 アランのいない家で、薫は真木とふたりで朝食をとった。
自分の訪問により、良好だった薫とアランとの均衡が崩れてしまったことを真木は悟ったが、余計なことを自ら口にすることもなく、淡々と食事を続けた。
片付けをして診療所の用意をしたが、いつものように誰かが来ることはなかった。
自分の身の振り方で頭がいっぱいの薫には、患者が来ない違和感の訳を深く考えることもなかった。


「失礼とは思いますが、ここは戦勝国とは思えない町ですね」
カルテ整理をしている薫に、真木はそう声を掛けた。
「私もここへ連れて来られた時、そう思いましたよ。
自分が生まれ育った貧しかった農村を思い出さずにはいられませんでした。
でも、ここの人たちは明るくて温かい……いや、熱いんです。
敵国の私がここへ来た時、人々は私に憎しみをぶつけて来ました。
住むのは無理かと思いました。でも、みんなは私を受け入れてくれました。
自分の居場所が定まることが、こんなにも心穏やかになるとはこの歳まで私は知りませんでした」
薫は手を休め、視線を彷徨わせながら言った。
「私は日向からの依頼であなたを探し、ここまで来ました。
正直、この依頼、あなたにとっては決して悪い話ではないと思っていました。けれども、昨日今日とのあなたの憔悴する様を見ていると、私は悪い知らせを運んできた悪魔なのではないかと、昨夜は眠ることができませんでした」
真木もまた、迷い悩んでいた。
「あなたの意思が何事にも最優先されます。橋本薫に戻りたいのならば、その手続きは可能です。
日向が残したものを受け取るのなら、それも可能であり、拒否をするならそれもまた……ただ、物理的なものは拒否しても、日向の想いと心だけはどうか拒否しないで欲しいんです。二泊させていただくとお願いしましたが、私は今日、日本に向けてここを発ちます。日向姓から橋本姓へ戻す書類と、一切の相続放棄の書類を今、お持ちします。そこに署名をしてくだされば、それですべてが終わります」
真木はそう言うと席を立った。
俯く薫の前で真木は立ち止まる。薫は静かに顔を上げた。
「これは日向の残したものです」
笹本は懐から白い封筒を薫へと差し出した。
「もしも……あなたが幸せそうに暮らしているのなら、これは渡さないで欲しいと。
私は今も迷っています。あなたにこれを渡すべきなのか否か」
封筒を手にした手が小刻みに震える。
「私は帰国の支度をします」
真木はそう言うと二階へと消えた。


日向が自分に何か思いを残していた。
薫は強張る指先で何とか封を開けた。
美しい流れるような毛筆での文面だった。



『君に出逢えたことがただ、嬉しくて、
我が命、海に散っても、一片の悔いはなし。
君のしあわせだけを 切に切に願う』



涙でぼんやりした視界のままで、日向のしたためた文面を薫は何度も指で辿る。
指先から日向の思いが熱く伝わってくる。
「お気持ちは痛いほどに嬉しいです。
でも、今の私に、アランや町の人々を見捨てることはできません……」
薫は血を吐く思いで、思いを言葉にした。


昼を過ぎてもアランは戻らなかった。
どこかで倒れているのでは……
薫は真木に診察室の留守番を頼み、外へ出ようと扉に手をかけた。
と、その時、その扉は外から開けられた。
「アラン!?」
そこにはアランを先頭に町の者たちが揃い立っていた。
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